明慧法会|深い渓谷の大法徒(二)
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2021年4月1日】(前文に続く)

 四、衆生を救い神の道を歩む

 1999年7月20日、中共の迫害の元凶・江沢民が法輪功に対する残酷な迫害を発動しました。この突然の血生臭い弾圧に直面し、私たちはまったく心の準備ができませんでした。煉功が破壊され、修煉者たちは解散しました。警官たちは私を何度も探し続け、大法書籍と資料を提出するように要求しました。私は決して警官たちに渡さず、「それは私の命の綱であり、私は決してあなたたちに渡すことはできません!」と言いました。警官は私の家の近くに1週間滞在し、私の外出を許しませんでした。警官たちは車を準備して滞在し、ずっと私を階下に下ろしませんでしたが、最終的に皆去っていきました。私はいつものように法を学び、煉功し、一日も欠かすことはありませんでした。

 2002年、私に気管支炎の症状が現れ、昼夜を問わずベッドに横になり、せきが出て非常に辛くてたまりませんでした。警官たちがそれを聞き、警官たちはこの機に師父を誹謗中傷し、大法を陥れ、大法に泥を塗ろうとしました。警官たち十数人が私を囲み、私を連れ出そうとしました。私はすぐに起き上がり、片手で立掌し、口の中で「掌を立てれば、乾坤震い」[2]と言いました。私が心の中で思ったのは「彼らの背後にある大法を迫害する邪悪要素を取り除く」ということでした。この時、私の右手から強烈な白色光が出て、邪悪要素に攻め入りました。大部分の警官がみなすぐに逃げ出し、2人だけが残り、とても小さくなってしまい、その場に身をかがめ、最終的にやはり逃げ出しました。それから二度とどんな悪人も私に会いに来ませんでした。

 あいだを置いて、私は山の下に下りて、真相資料を入手しなければなりませんでした。私がふわりと浮き漂うかのように歩いているのを人々は見ました。20歳前後の人のように、何の病気もみな無くなった私が法輪功を修煉していることをみな知っており、これは私が人々に真相を伝える有利な条件でした。

 師父は「皆さんはそれぞれこの世界で大きな範囲を受け持ち、その部分の衆生を代表しているからです」[3]と説かれました。私は「山岳地帯で育った私の使命は私住んでいるこの山岳地帯の衆生を救い済度しなければならない」と悟りました。山岳地帯は広く分散しており、さらに交通は不便で、私の任務はとても重かったのでした。しかしどんなに難しくても、どんなに重くても、私はすべて行わなければなりません。それは私がこの世に降りて来る前、師父と交わした誓約であり、私は必ずこの山岳地帯の人を救い済度しなければなりませんでした。

 私はいつも暗くなると出かけ、真夜中になって戻って来ました。真相資料を積み込んで、さまざまな村へ配りに行きました。最初は私1人で、その後また戻って来た同修がおり、私たちは一緒に出かけて配りました。山村の小道は幅が狭くやっと1人歩くことができます。注意を怠れば、渓谷に転げ落ちてしまいます。

 ある時、私の家の牛が急に、私に向かってきて私の肩に前足を思い切りぶつけて来ました。私は突然の牛の動きに対処できず、突然地面に倒れてしまい、右足のつま先が反対向きになりました。長い時間をかけて、私はやっと上半身を起こしました。私は痛みに耐えながら、つま先を元に戻そうとしましたが、元に戻すことができず、私は踵をついて歩きました。このようなことが起きても、当日の夜私はいつもと同じように同修と一緒に資料を配りに出かけました。私は右のつま先を上に向け、ぴょこぴょこと同修の後ろをついて行き、険しい山道を歩きました。空がもうすぐ明るくなり始める頃、私たちは配り終え、この時私ははじめて自分の足のことを思い出しました。見てみると足は、いつの間にか完全に正常になり、痛くありませんでした。

 法を正す進展に伴って、私は密かに資料を配ることから公に配るようになり、直接人々に会って真相を伝えるようになりました。少し学歴の高い有識者や村の幹部に会ったり、時には警官など様々な人に会いました。私はさまざまな人に会い、その人たちの能力に合わせた真相伝えをしてきました。

 真相を知らない村の幹部に会った時、私はいつも幹部たちに「山の下に1人の村の書記がおり、彼は法輪功を修煉する人は皆良い人であることを知っていました。村に上の官員が来るという連絡が入り、書記はすぐに法輪功修煉者に『上から人員が来るので、すぐに皆さんの荷物をまとめてください』と知らせました。ある時、村人が電話をせず、直接やって来て『香梅さんに会わなければならない』と言いました。書記は彼らを江梅さん(別人)の家に案内しました。その後、書記は『トイレに行って来ます』と言い、トイレに行った後、すぐに香梅さんの夫に電話をかけ『上から人員が来て、香梅さんを探しています』と伝えました。トイレから戻った後、村人は『間違っていました、探している人は香梅さんという人で、江梅さんではありません』と言いました。再び香梅さんを探しに行きましたが、書記から連絡を受けた彼女はすでに去っていました。この書記は現在、日々豊かに過ごしており、仕事は順調に展開しています。彼は大法弟子を保護したので、福報を得たのです。彼は上の官員を怒らせたりしなかったので、何の問題もなく、この村の書記は今でもまだ書記をやっています」という物語を伝えています。

 中共は法輪功を弾圧し、多くの人が法律に違反しています。私は村の幹部たちに「憲法」第39条の規定について話しました。多くの村の役人たちがみなこの規定に違反していることを村の幹部たちに伝え、それはまた村の役人たちが法の執行機関の法律に違反していると話し、もし市民(農民)が村の幹部たちを告発し、村の幹部たちを法廷に告訴すれば、幹部たちは3年間の懲役に直面することになると伝えました。もし農民の無知を利用し、そこに付け入って違法行為を働いたならば、最後に苦しむのは自分自身だとも伝えました。私は村の幹部たちに、彼らが大法弟子を大切に扱ってくれるならば、素晴らしい未来があり、彼らの一家全員が福報を得ることを願っていると伝えました。

 師父は「すべての大法弟子を私は見捨てず、皆私の身内」[4]と説かれました。

 人を救う過程で、私は昔の同修を探すことを一つの重要なこととして行い、なぜなら昔の同修たちはみな大法と縁がある人で、みな師父の身内だからです。数年来、絶えず戻ってくる同修がいました。私たちの村には数年前に戻ってきた2人の同修がおり、私たちは折よく一つの学法グループを結成し、毎日一緒に法を学び、煉功しました。山の下の同修の援助の下で、私たちはみな新唐人テレビを設置し、大法の真相の番組を直接見ることができ、正義と善良の声を聞くことができました。特に私たちは毎年神韻芸術団の公演の演目を見ることができ、これは私たちの最も喜ばしいことになりました。

 さらに私たちを喜ばせたことは、昨年(訳注:2019年)同修がまた私たちにパソコンとプリンターを持ってきて、インターネットに接続してくれたことでした。これは素晴らしいことで、私たちは直接明慧ネットを見ることができ、自分で法輪功の資料を作ることができ、再び山を下りてあんなにたくさんの道を走る必要はもうありませんでした。

 五、家族全員が恩恵を受ける

 法輪功を修煉した後私の体は煉功してよくなり、今では一粒の薬さえ飲んだことはありませんでした。中共がどんなに弾圧しようと、私たち家族全員はみな法輪大法を信じており、みな私が修煉することを支持し、みな法輪大法が素晴らしいことを知っており、家族全員がみな仲が良かったのでした。

 夫は修煉していませんが、弾圧が最も厳しいときも、私に同行して資料を配りました。ある時、村の邪党のスピーカーがとても邪悪に騒ぎ立て、私は「彼らにも資料を1部渡して見せるべきだ」と言いました。夫は「自分が行く」と言い、資料を1部持って行き、すぐに戻って来ました。「どこに置いてきたの?」と聞くと、「事務所には誰もおらず、彼らの家のテーブルの上に置いた」と言いました。迫害が厳しかった時、夫は私を外に出さず、私の代わりに資料を配りに行きました。

 2人の息子と娘婿もみな大法を信じ、大法を支持しました。息子と娘婿たちはみな仕事が順調で、平和に暮らしています。同修が来たとき、私が家に居なくても、娘婿たちはみな同修を歓待し、食事を用意しました。4人の孫はみな活発で可愛く、体も健康で、病気になったことがなく、みな「法輪大法は素晴らしい」と知っていました。

 以下は事実です。

 半生の苦しみは病気で、神や佛におすがりしても天はかかわらず
 ある朝法輪功を見つけ、大法師父が私の命を救ってくださいました。
 法を学び煉功し心性を修め、師父は私に私自身の本来の姿を見せてくださいました。
 衆生を救い済度することは使命であり、大法を堅く修め師父のお手伝いをして歩みます。

 ありがとうございます、師父!

 ありがとうございます、同修の皆さん!

 (完)

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法一』「北京国際交流会での説法」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「大覚」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」

 (明慧ネット第17回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/11/14/414816.html)
 
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