文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年4月6日】最近、正体不明の煩わしさに時々悩まされてしまい、うちに向けて探してみても根本的なものが見つかりません。表面上、周りの親友の言動が人の理にすらかなっていないことが原因のようで、理解に苦しんでいます。この中で、私は絶えず自分の主意識を強化し、師父の話に従って、うちに向けて自分の不足を探し、法で思想の中の変異物質を取り除こうとしました。
こうして大変神経を尖らせ、少しでも油断するとどうなってしまうかわからない状態が続いています。時々もうこのような生活には耐えられない、目の前に起こる様々な不愉快な出来事に、もうどうにもできないというネガティブな考えが浮かんでしまいます。毎日が同じような繰り返しで、自分を喜ばせる出来事は何一つありません。
この消極的な観念はますます蔓延し、私は他人の言動をますます理解できず、さらに心に刺さるようなことを言われるともう我慢の限界だと感じ、苦しむ毎日でした。
時々師父に線香を上げるとき、師父の像を見ながら、まるで自分がミスを犯した子どものようで、しかし、どこでミスをしたのかがわからず、ただ師父の前で、ひたすら純粋な心を保つように師父の像を黙視するだけでした。
師父は私が悟らないことをご存知で、悟らせてくださいました。数日前の夜、私の脳内に「陥る」という言葉が繰り返し現れました。私はそうだ、私は陥ってしまったのだと、ハッとしました。かつて師父は、私と私の姉妹が泥沼にいると悟らせてくださいました。最近の状態も、私が陥っていることを示しているのです。
この糸口を辿っていくと、根本的な執着が見つかりました。20年間の修煉状態を振り返ってみると、絶えず消極的な状態の中でネガティブな思想を無くそうとしていました。この執着が見つかるまで、人の基準で自分の消極的な態度に言い訳を作りました。自分は内向的だからとか、今の社会の道徳水準が低いからだとか、時々恨む心も現れました。
師父の法に照らし合わせてみると、修煉におけるすべては偶然ではないのです。人間社会はまるで大きな劇場のようで、我々は役者で、あまり役にハマりすぎてはなりません。つまり、人間の虚像に惑わされ、陥ってはいけません。修煉者は人の中から絶えず抜け出し、我々を束縛する執着を切り捨てなければなりません。法の中で絶えず精進し、自らを清めることで初めて三界の「泥」を振り落として初めてより高い次元に昇華することができるのです。
個人の現段階の修煉における浅はかな認識で、妥当でないところはどうぞお許しください。
【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】