子守りをする中での修煉体験
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文/中国の大法弟子

 

 【明慧日本2021年4月24日】

 

 1、自我を放下して、はじめて楽になれる

 

 私の孫娘は、悠ちゃんといいます。昨年4歳になり、『洪吟』の中の詩をたくさん暗唱できるようになりました。

 

 悠ちゃんは我が家に来ると、小さいことで泣いて騒いだり、床に横になって起き上がらなかったりすることがよくありました。その時、私は心性を修めることがまだできておらず、不満や恨みを飲み込んで辛抱してかろうじて「忍」を守った状態だったので、こんな悠ちゃんを見ると、相手にせずに対峙してしまいました。結局、悠ちゃんは泣きすぎたせいで声が枯れ、目が腫れたりしました。今にして思えば、当時の自分は闘争心、自我に対する執着などに動かされて、理性も失ったとしか言えません。悠ちゃん、本当にごめんなさい、おばあちゃんは間違いました。このようなことが起きたのは私を高めるためだったのですが、私は常人の心で対応し、高める機会を一回一回逃しました。

 

 ある日、発正念する時、悠ちゃんは私にクレヨンを探してほしいと言ってきたので私は怒って、「あなたは子供弟子でしょう、弟子なのに発正念を邪魔するの?」と言いました。悠ちゃんは泣き止まないため、結局、発正念もできなくなって、私はとても立腹しました。事後、悠ちゃんに仕返しとして約束したおもちゃを「もう買ってあげないよ」と言い、また「自分の家に、お母さんのところに帰りなさい、ここにいないで」とも言って、完全に常人の手段で対抗していました。あの時「発正念の邪魔をする子に、クレヨンを探してあげるものか」と思った自分の心は本当に悪としか言えず、私心だらけでした。

 

 「皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそが、最も重要だからです」[1]と師父は説かれました。

 

 すべての執着(怒る、怒鳴る、仕返し、脅かす、「お母さんのところに帰れ」と言ったこと、子供に約束したことを守らない)を「三つのこと」のためという理由で言い訳して、何回も幼い同修を傷つけました。悠ちゃんが我が家に来た初日に「私は何をしに来たのかを、おばあちゃんは知っているの? 私は大法を得るために来たんだよ」と言ったことがあります。「クレヨン騒ぎ」の日の夜、いつもの通りに悠ちゃんを学法に誘うと、まだ落ち込んでいる悠ちゃんは断りました。自分が良く行わなかったせいで、悠ちゃんに学法をしたくないようにさせたとしたら昼間自分のやったことや、言ったことを反省しなければいけないと思いました。

 

 ある日、図工を一緒にやると悠ちゃんと約束したのですが、一日忙しくてずっとやる暇がなく、深夜12時の発正念をした後、私は「今日は遅すぎたので、明日やろうか」と言うと、怒った悠ちゃんは「図工をやらないと寝ない」と言いました。そして「おばあちゃん、一人で『誰が是 誰が非』[2]を10回暗唱して、暗唱しないと眠らせないよ」と言いました。また「おばあちゃんはどこが間違ったかを知っているの?」と聞いてきたので私は「約束を守らなかったことだ」と答えたのですが、実は図工をやるのは面白くない、時間の無駄、遅すぎると明日は起きられないなどと思っていました。

 

 「やる気があるかどうか、気分が良いかどうか、愛しているのかそれとも憎んでいるのか、とにかく人類社会のすべてのことが情から出ています。この情を断ち切らなければ、修煉することはできません」[3]と師父は説かれました。情から出たのは私心で、つまり相手の気持ちを構わず、自分の目的だけを達成したいことでした。それならばやる気がないこと、情、私心を全部除去しようと私は考えました。そしてすべてを放下して、いつ寝るかも考えず、悠ちゃんと一緒に図工をしました。その日、とても遅くまでやったのですが、「自我」を放下した後の気楽さ、快適さは今まで体験したことのない感覚でした。「自我」を持たない状態はこんなにも幸せなのです。

 

 2、子供の純真さは、私の不足を映し出した

 

 4歳の悠ちゃんはよく一緒にチラシをポスティングしてくれます。ある日、悠ちゃんはズボンにおしっこをしてしまい、私はじめじめしたズボンを触って、「すぐ家に帰ってズボンを着替えよう」と言ったのですが、悠ちゃんはどうしても帰らず、根気よくやっていました。「寒くない?」と心配して聞いたら、「寒くない、寒くない」と悠ちゃんは答えながら前に進んでいました。ある2階建ての建物に着いた時、2階から声が聞こえました。1階の郵便受けに入れたら良いと言ってくれたのですが、悠ちゃんは2階に上がって住人の手に渡しました。じめじめしたズボンを穿いていても衆生を救うことを疎かにしない悠ちゃんの誠意に心を打たれました。一方、自分はどんな考え方をしていたかというと、「持っている資料を全部ポスティングして、早く家に帰ってズボンを着替えさせよう」というものでした。完全に常人の考え方でした。

 

 ある日、ある家の門を通った時、子犬が私たちに大声で吠えました。私は門を避けて、犬がいたらポスティングはしないようにと悠ちゃんに言いました。振り返ってみると、悠ちゃんは「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしいと覚えてね」と子犬に話しかけて、真相資料を玄関に置きました。子犬はもう吠えなくなりました。「犬は怖くない?」と聞いたら、悠ちゃんは 「子犬と私は親友になったんだよ」と答えました。恥ずかしながら自分の心性は4歳の子供にも及ばないと思いました。大人である自分は犬の吠える声を恐れ、犬に追いかられることを恐れ、その後住人が出てくるのを恐れて、保身策を図りたいという私心はどれほど強いものでしょうか。

 

 ある日、私は悠ちゃんを連れてある中学校に行くと、悠ちゃんはかばんから2冊の小冊子を出して、片手で1冊ずつ配ろうとしました。私に恐れる心が生じて、学校の警備員に見られたら危険だと思い、いろいろな理由をつけてやっと悠ちゃんに小冊子をかばんにしまってもらうと、私の心ははじめて落ち着きました。何て純粋な子でしょう、後天的な観念は何一つありません。一方、自分は恐れる心、保身の意識に覆われています。20年修煉してきても、心性は子供にも及ばないとつくづく思いました。

 

 公園に遊びに行く時、悠ちゃんはいつも友達だちに真相資料をあげて、「良いことがあれば、友達と分かち合わなきゃいけないと幼稚園の先生が言った」と言っています。また幼稚園で悠ちゃんは「法輪大法は素晴らしい」をほかの子供に教え、担任はそれを知り副校長に伝えると、校長は娘に電話をしてきたので娘は怖がっていました。私は幼稚園に行き副校長と20分ぐらい話し合い、副校長は真相が分かり、にこにこして私を見送りました。

 

 悠ちゃんの衆生を救いたい誠心はいつも私を感動させ励ましてくれます。悠ちゃんはよく「外に出て人を救おう」と促してくれます。それ以来、子守りをするのは面倒くさいと思わず、悠ちゃんと2人の学法チームを作りました。夕食後に学法をして、寝る前に『洪吟』を暗記し、子供弟子がそばにいることを師父に感謝しています。

 

 3、観念を変えて、深夜12時から『轉法輪』を暗記

 

 深夜12時の発正念をしてから、私はいつも早く寝るようにしています。その時間帯は良くない鬼が出没する時間帯だと先入観を持っているからです。悠ちゃんは我が家に来てから最初の1週間、昼寝もしていないのに毎日夜中の1、2時まで、一番遅い時は3時半までずっと起きて遊んでいました。私は眠くて仕方がないのですが、悠ちゃんは「寝るのは幸せじゃない、大法を学ぶことこそが最も幸せよ。私とおばあちゃんは天上にいた時は兄弟だったので、助け合わなきゃ。早く起きて学法しようよ」と言いました。明日の朝に起きられないこと、睡眠不足で元気がなくて明日一日の生活に影響することなど心配して、私の苦痛は極りに達して、叫びたい、怒鳴りたいと思っていました。

 

 師父は詩の中で、「乾坤を再造して大穹を正し 重々たる障害を突破す 法を正すは旧い塵を洗い落とすにあらず 同化、更新して大洪に入る」[4]と記しています。人間の観念を変えようと私に諭しているのではないでしょうか。人間の次元で「日の出にして行う、日没にして休息する」との考えがありますが、修煉者はそのレベルを超えられるはずです。

 

 師父の詩には「明月が秋風を伴い 嫦娥は古箏を弾く 風が吹いて鈴が鳴り 天仙の笑い声を伴う 大空は万里に広がり 光は雲海を灯すよう 夜半でも天地は明るく 笑い声が深夜まで続く 月下の雲の影が揺ら揺らし 輪廻を繰り返す 人の世でさすらい 渡船に乗れるために」[5]と書かれています。何時に必ず寝て、何時に必ず起きなければいけないなど、私がどうこうしたいというのはすべて執着だと分かり、それから起きられないことも心配しなくなり、自分が計画したスケジュールにも執着しなくなりました。

 

 「人類は固有の古い観念により、ある種のやり方、考え方を形作ってしまうと、新たな認識を受け入れることが難しくなります。真理が現われても、それを受け入れる勇気がなく、本能的に排斥したりします」[3]。すべてを放下して師父の言う通りにしようと私は決心したとたん、悠ちゃんは夜になると普通に寝るようになりました。

 

 今まで、自分の正常なリズムを乱す出来事が起きれば、それを良いことと考えず自分を修めることもせずいつも妨害だと思って消去するために発正念をしていました。今は心を静めて『轉法輪』の暗記をします。だいたい1ページ前後暗記して、時計を見ると多くの場合は2時前後になります。アラームを朝5時にして就寝します。5時に静功をして、6時に発正念して、動功は昼の時間にやります。悠ちゃんが我が家に来た最初の1週間の辛抱がなければ、この一歩を踏み出すこともできなかったと思います。心から「私がいつも言っていることですが、大法を学んだら、良いことにあっても悪いことに遭っても、皆良いことです」[6]の道理を理解できました。すべての難関は我々を成就させるためのものです。

 

 深夜に『轉法輪』の暗記をするのは多くのメリットがあります。その時間帯は外部のことに気を配らずに集中することができ、まとまった時間が2時間あります。悠ちゃんは昼寝をしないので、私は昼間に学法の時間をなかなか作れません。夜、悠ちゃんが寝ると私もとても眠くなり、ずっと突破できていませんでした。今は悠ちゃんが寝たら私も寝て、12時に起きて発正念して、それから暗記をします。学法の時間が少なすぎると痛感していますので、このように時間を作ってやるしかありません。

 

 4、吉ちゃんに対する観念を変える

 

 以前は、吉ちゃん(悠ちゃんの弟)のことが好きではありませんでした。去年の冬、毎日娘の家に行き、悠ちゃんを保育園まで送り迎えして、家で吉ちゃんの子守りをしました。2歳の吉ちゃんは起きるとすぐアニメを見て、宇宙人や宇宙大戦のようなものばかり見ています。このようなアニメは子供の成長に良くないと思って、師父の説法ビデオを見せることを試みたのですが、吉ちゃんは泣いたり騒いだりして見ようとしません。

 

 そのたびに吉ちゃんの根基が悪いと思って、吉ちゃんが好きになれませんでした。吉ちゃんも私に敵対の態度を取って、よく小さいこぶしで私を叩いたり、おもちゃを投げてきたりして、私に抱っこもさせません。主人も「吉ちゃんはどうしてこんなに君を嫌うのか…」と不思議そうでした。業力のせいだと思い、私は無理やり我慢をしていました。そんな中、娘が受験勉強をするため、吉ちゃんを我が家に送ってきました。私は吉ちゃんに対する先入観を捨てて、必ず大法と縁がある子供なので、今後親切に接しなければならないと思いました。

 

 来た日に、私は誠意を込めて「あなたが人間に生まれた目的は大法を修煉するためなので、おばあちゃんの家に来たら、学法をしなければならないんだよ」と話しました。3歳の吉ちゃんは私の話を理解したようで、真面目に頷きました。それ以来、毎朝起きてから師父の説法ビデオを見て、アニメを二度と見ていないし、アニメのことすら忘れてしまったようで、その状態が1週間ほど続きました。

 

 正しくない観念は人を傷つけ、衆生を救うことを妨害する。観念を変えたら正しい一念の力は衆生を救うことができるのです。そのため、自分をよく修めることはこれほど重要なのだと、吉ちゃんの変化が私に悟らせてくれました。

 

 五、一歩引き下がる

 

 5歳の悠ちゃんと3歳の吉ちゃんが一緒になると、はしゃいだり喧嘩するので、その時、私は「大人しくしなさい!」と叫びます。悠ちゃんは「おばあちゃんの言うことは聞きたくない」と言うので、「どうして?」と聞くと、「おばあちゃんは優しく話さないから」と答えます。そうですね、私の言い方は共産党文化のような命令の口調で、善がなくて、いつも子供たちを圧制しようとしているので、子供たちは当然聞きません。まだ子供ですから、もっと優しく接しなければなりません。ある日私はまた心性を守れなくて悠ちゃんを大声で怒鳴ると、悠ちゃんは「このまま争い続けると、おばあちゃんは天国に行けなくなるよ。全部で8回もあったので、これ以上チャンスはないよ」と言いました。

 

 ある日、吉ちゃんは主人と外に遊びに行きたくて、靴を履いたのですが、ズボンを穿いていません。ズボンの口が小さくて、靴を脱がないと穿けません。しかし吉ちゃんはどうしても靴を脱ぎたくありません。私は、「靴を脱いでズボンを穿いてから遊びに行こうね、そうしないと出かけることを止めるしかないね」と言って、吉ちゃんは断固として靴を脱がないと泣き出しました。その時、師父の言葉、「われわれは、トラブルに直面した時、一歩引き下がれば世界が広々と開けると言っています」[3]を思い出して、私は闘争心、力比べの執念を放下し態度を和らげて、ズボンを手に取って吉ちゃんに「外に出よう、ズボンを穿こうね」と言い、彼の靴を脱いで順調にズボンを穿かせました。吉ちゃんも泣き止んで主人と出かけました。もし私はずっと吉ちゃんと対峙したら、この子はきっと長く泣き続けるに違いありません。自我を放下したら難題は自ずと解決しました。

 

 私たちの修煉は自分を成就させるためだけではなく、衆生を救うためにもあります。「あなたは私を救うべきだ、皆があなたは私を救うべき、救うべきだと言っていますが、その表現形式は世間の論理や認識のようなものではなく、人に何かを頼むとき礼儀正しく、慎み深くなければならず、私を救ってくれるから、まず感謝して、便宜を図ってあげるという認識ではありません。それらから見れば、私を救ってくれるなら、まず私の次元に達し、この威徳を持ってはじめて、私を救うことができます。あなたにその威徳がなく、私ほど次元が高くなければ、どうやって私を救うのでしょうか」[7] 。

 

 修煉の中で、困難が現れる時は、衆生が大法弟子に救ってほしい時であり、大法弟子に困難を乗り越えて次元を高めることを期待する時でもあります。自分をしっかり修めて大法の基準に達してこそ、衆生に納得させ、はじめて衆生を救うことができる、と私は悟りました。

 

 6、「おばあちゃんが優しくなれば、私も良い子になる」

 

 孫2人も来て、私は本当に疲れました。娘に電話して「受験勉強をすると言っても、子供1人ぐらい、自分で面倒を見てよ」と言うと、娘は「時間がないので、2人ともお願いよ」と答えました。「師父はもう一度言いますが、皆さんの時々刻々が修煉の道にあり、時々刻々、私が皆さんを管理しています。自ら妨害を招いてはいけません。最後の残り少ない道をしっかり歩んでください」[8]を思い出して、師父が按配されているので、自分自身で楽な道を選びたいなどと言わないほうがいいと思いました。

 

 子供たちのいたずらに心が動じて、心性を守れないことが多々ありました。とうとうある日、悠ちゃんは紙を持ってきて、私に「優しく話すこと」と書かせて、「一日に何回も見てね」と言いました。私は急に目が覚め、子供たちが騒ぐことにどう対処するかは修煉の一環なので、常人事だと見なさないようにしないといけないと気づきました。

 

 「わたしは皆さんに大法を教えただけではなく、わたしの行ない方をも皆さんのために残していますが、仕事のときの口調、善の心、それに加えて、道理で人の心を変えることはできても、命令では永遠にできないのです!」[9]と師父は説かれておられます。

 

 自分は子供に対して良い口調ではなく、いつも命令的な言い方をして、叱る時もあり、善の心も持っておらず、子供たちがはしゃいだらすぐうるさいと思い、自分の時間が子守りに奪われたと思っていました。子供たちに道理を聞かせることもなく、何でも私の言うことに服従させようとしていました。実は子供には子供の天性があって、騒いだりはしゃいだりするのはごく自然なことで、間違っていたのは私です。それから私は考え方、言い方に注意して、子供が受け入れられるかどうかを配慮するようになりました。実は、自分の情緒が乱れる時は、騒いでいる子供を見てうるさいと思い、自分が良い気分にある時は、子供の遊びやいたずらを見ると天真爛漫で可愛いと思います。見方が異なると目に映る結果も異なってきて、すべては心によって変わります。悠ちゃんは「おばあさんが優しくなれば、私も良い子になる」と言ったのです。子供弟子の口を借りて師父は私を啓示しているのですね。優しい人にならないといけないと思いました。

 

 結び

 

 この体験談を書いているうちに、普段意識していない多くの執着心を見つけました。またそれらの執着を固守していたことで、同修を傷つけてしまったことがあります。私に傷つけられた同修に心からお詫びし、お許しをもらいたいと思います。これから互いに心の隔たりを取り除き、共に精進して衆生を救う使命を果たしていきたいと思います。

 

 注:

 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「再認識」

 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是 誰が非」

 [3] 李洪志師父の著作:『転法輪

 [4] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「乾坤の再造」

 [5] 李洪志師父の詩:『洪吟四』「月見」

 [6] 李洪志師父の経文:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』

 [7] 李洪志師父の経文:『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』

 [8] 李洪志師父の経文:『再び棒喝』

 [9] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「はっきりと目覚め」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/5/417449.html)
 
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