文/中国の大法弟子 楚原
【明慧日本2021年5月18日】コロナウィルスから2020年のアメリカ選挙まで、この1年の世界情勢は浮き沈みが激しく、多くの修煉者の心に影響を与えています。
コロナウイルスが拡大する際、自らセルフルメディアを運営する修煉者の中には、古代中国の予言者や火星の少年、インドの少年などが行った予言に、真実を明らかにする手段として用いた人もいました。また、多くの修煉者は、その内容を追って、人々に真実を明らかにする際に、そのような情報を引用していました。
アメリカの選挙前には、トランプ氏が「神に選ばれし者」として再び大統領の座を獲得するという予言もあったのですが、結果は期待通りにならなかったり、一般の人々に話していたことが現実にならなかったりすると、同修だけではなく、人々の中にも失望や迷いを感じる人がいました。修煉者の中には、師や法に対して間違った考えを持っている人もいました。
修煉者は皆、内に向って探すべきことを知っています。では、私たちは何を基準にして内に向って探せば良いのでしょうか?
予言は一般の人々の心を啓発する役割があります。大法弟子としては、師父の法を正すことにより、過去の予言をそのまま鵜呑みにすることはできなくなり、すべては師父次第であることを知っています。
心が動かされたとき、これらの予言への執着を完全に捨てたのか、それとも真理を解明するための補助資料として使っただけなのかを検証しなければなりません。どのように真実を明らかにしても、最終的には大法に焦点を合わせるべきであり、いかなる予言にも焦点を合わせるべきではありません。修煉者が予言に執着するのは、法や師よりも予言を優先していることになります。
昨年、ある修煉者が書いた、占星術を使ってコロナウイルスの進展を判断するという記事も、一部の修煉者の執着心をかき立てました。予言を確かな事実のように語る人もいて、もちろん私たちの真実の解明にも支障をきたしています。
トランプ氏が選挙に負けたとき、一部の修煉者は動揺し、不満を募らせました。彼らの修煉の状態は、三つのことをうまく行うことができませんでした。しかし、一部の同修は、この混乱の中で内に向って探し、自分を修めることができました。
明慧ネットに掲載された「法を正すことが終わる時期に対する考えと予言」という記事も、修煉者たちに影響を与えました。子供弟子が見た未来の出来事を、真理の解明に利用する人もいるかもしれません。この子供弟子が見たものは、彼の現在の次元のものであり、現実がどのように展開するかについては、それは師の選択であり、師だけがその詳細な按排をされていることは、誰にでも明らかなことです。なぜ修煉者が子供弟子の予言に、気持ちが高ぶったり、腹を立てる必要があるのでしょうか?
師父は「私が行なったこのことだけが誰もその未来を見ることができません。私が行なう前、全く未来はありませんでした」 [1]と説かれました。
未来がどうなるかは、慈悲なる師父だけが知っています。すべては師の管理下にあります。大法弟子である私たちや他人たちは、どうやって師父の様々な次元の按排を見ることができるのでしょうか? 修煉者の中には異次元の光景を見る人もいますが、どれが旧勢力の按排で、どれが私たちの修煉を向上させ、衆生をよりよく救うために師が示したものなのか、本当に見分けることができるのでしょうか?
予言への執着の裏には、実は法を正す時期の終焉への執着があることに気づきました。ある修煉者たちは、希望のない苦しみの中で生きていて、時間が永遠に続くかのように感じ、予言に安心感を得ていました。ある修煉者たちは、予言に未来の方向性を求め、予言に沿って普段の生活を整えたりもしました。大洪水の予言があれば、食料を買いだめしたり、防水用品を買ったり、コロナウイルスの第2波、第3波の予言があれば、あらゆる物資を買いだめするようになっていました。
昨年のコロナウイルス発生時には「法正が終わる」「大淘汰が来る」「自分はまだ基準を満たしていない」「こんなに多くの人が救われていない」とパニックになった修煉者もいました。コロナウイルスがおさまると、そのような修煉者たちは安心しました。2025年頃にコロナウイルスが終わるという予言を見て、まだ時間があると思い、再び日常生活に目を向け始め、何かに執着し続けていたのです。
私は、師と法を信じることが修煉の礎であることを実感しました。信じることをなくして、どうして修煉と言えるでしょうか? 師への真の信頼は無条件であり、修煉のすべてに通じるものです。古代人、庶民、修煉者の予言を見るとき、私たちは法を用いてそれを測るべきです。冷静になってよく考え、合理的に判断すること。大事なのは、常に自分を正し、執着をなくすことです。
天体は地球を揺るがす変化を遂げています。今、私たちがすべきことは、心を落ち着かせ、自分の欠点を見つけ、法に照らし合わせて、修煉の正しい道を歩むことです。
以上は私の個人的な理解ですが、適当でない所があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『米国第一回法会での説法』
【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】