執着についての認識
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2021年6月1日】執着は背中にターゲットを置くようなものです。矛盾は外部からの攻撃のようなものです。それは矢であったり、パンチであったり、この標的に対して直接に攻撃することです。自分自身にショックや不快感、痛みをもたらすことがあります。これに対し、一般的には、不快感を与えている人や物に直接反撃するのが普通です。条件が整わなければ、我慢したり、黙って傷をなめたりすることもありますが、しかし、修煉では、打たれているのは実は的であることに気づき、自分がすべきことはその的を外すことです。自分の行動をターゲットの好みに合わせて支配するのではないのです。

 なるべく傍観者の視点に身を置き、これらの執着に心が動かされているいくつかのシーンをお話しします。

 闘争心は、無意識のうちに人に反撃してしまうことで現れます。最初はロードレイジのようなシナリオでした。「車で通勤しようと急いでいるときに、突然車が前に突っ込んできて、距離があまりにも近すぎるため、その車にぶつかりそうになり、思い切りブレーキを踏みました。元々焦っている自分にとっては、ある一念がすぐ頭の中に飛び出て、自分を怒らせたり、クラクションを鳴らしたり、さらに追い越したりして、割り込もうとしていました」

 これらの一連の考えは、この闘う心の的によるフィードバックです。それもすぐに反映されます。自分の行動を制御する権利を奪おうと自分自身と争いさえしました。この時に、もし正念が早くでないと、それに振り回されて衝動的な行動をしてしまいがちです。そんなときこそ、自分をしっかりと持って、そのターゲットに触れられていることを意識して、自分ではないことを見分けられるようにする必要があります。何度も繰り返しているうちに、思考や行動を理性の基点に戻していくと、同じようなことでもこの闘争心がどんどん弱くなっていくことがわかります。

 上記のような強列でわかりやすいシーンに加えて、だんだんと自分の日常の些細な感情の中にも争いや嫉妬が隠れていることがわかってきました。このような執着は、明らかな衝動や怒りを示すものから、微妙な表情や声のトーンを示すものまで、あらゆるものに潜んでいます。

 例えば、新しい同僚が入社してきて、私が期待しているよりも仕事が遅いとき、自分自身が何気なく言ったことで、例えば「どうしてそんなに遅いんだ」「もっと速くできないのか」などと非難めいた言葉を使うことは、その背景に、自分の立場で物事を考える闘争心と、他人と自分を比較する嫉妬心があります。

 少しずつですが、私はこうしています。私がどうしていたのか、あなたはなぜそうしていたのかという基点で考えるのではなく、この事はこうするべきだという基点に自分を置くようにしています。この時、私は「何か問題がありますか?」「助けが必要ですか?」とこう尋ねます。あるいは、問題点を見つけて、それを嫌な口調でなく指摘すること、たとえば「通常、この段階ではこうこうやるともっと効率的です」。こうすると比較的良好なコミュニケーション効果があります。

 歓喜心とは、何かを成し遂げた後、あるいは何らかの形で認められた後、あるいは何かを得た後の「浮かれた」気持ちであることが多いのです。この浮かれた状態では、普段はしないような行動をとってしまいがちですが、これは歓喜心に振り回されて自分を見失い始めている証拠です。

 顕示心というのは、自分が何か誇れることをしたときに、それを人に知らせたい、人に認められたいと常に思っていることです。それは泡のようなもので、満足させればさせるほど大きく膨らみます。それが通常、虚栄心と呼ばれるものですよね、偽りの栄光です。しかし、そのものが実際にどれほどの価値や貢献を他者に与えているのか? 小さくはないかもしれませんが、それ以上に人が思っているほどの大きさではないのです。小さくなくても、すでに過ぎたことであり、それは師父によって与えられ、大法によって達成されるものです。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/5/18/425241.html)
 
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