「当事者は正確に判断できないが傍観者は正確に判断できる」についての浅い悟り
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2025年3月25日】「当事者は正確に判断できないが傍観者は正確に判断できる」とは、常人がよく言った言葉です。私は真理だと思っています。

 私たち修煉者は皆ほとんどこのような現象があります。ある身近な修煉者のことについて話すとき、その修煉者にどんな執着や欠点、癖があるかを話すと、周りの同修全員がそれを正確に言うことができ、しかも、全員がそれに同意するのです。つまり、「傍観者 」である私たちは皆、物事をはっきり見透すことができるのです。

 その修煉者について、一人目の同修が指摘したことは、二人目の同修もやはり同じことを指摘します。

 しかし、その修煉者は、当事者として、自分の執着や欠点が何なのかわからず、まだ迷っています。

 では、なぜその修煉者に直接問題を指摘しないのですか? こんなことをする同修はほとんどいません。また、一部の修煉者が長い間病業状態や魔難の中にいますが、周りの同修ははっきりその同修の執着と欠点が分かっているのに、面子のため、相手に嫌われることを恐れ、率直に告げることができません。10年以上一緒にいる同修もこんな感じです。

 どうすればこの現象を打破できるのだろうか? 私自身を例にとると、普段から付き合いの深い同修によくこのように話したことがあります。つまり、「当事者は正確に判断できないが傍観者は正確に判断できる」という道理を私は深く認識しています。この現象が同修に存在することも知っています。しかし、面子のため、あまり相手の欠点や執着を指摘できません。「私は心からあなたにお願いしたいことがあります。私の執着心や不足がわかっているなら、指摘してください。正しいか間違っているかは問題ありません」と言えばよいのです。そこまで言うと、相手は自然に指摘すると思います。(この時、相手がまだ何も言わなければ、相手に問題がある)そして、指摘された執着や欠点は実に的確で、中には10年以上気づかなかった執着や欠点さえあります。

 常人の例を二つ挙げます

 明の時代、「仁宣の治 」のとき、ある皇帝が「忠誠とは何か? 私の欠点や間違いを面と向かって指摘できる者こそ最大の忠誠です」と言いました。

 康熙帝と乾隆帝の盛んな時代がありました。乾隆帝は文官と武官に匿名の奏摺(そうしゅう)を書かせ、みんなが自由に発言できるようにしたことがあります。その結果、ある大臣が、乾隆帝が6回にわたり江南に下るときに、人的、物的、財政的資源を多く費やし、贅沢すぎると指摘する奏摺を書きました。乾隆帝は、非常に的中していると感じ、翌日、宮廷で、この奏摺をよく書いたと賞賛し、誰が書いたのか尋ねました。その大臣が手を挙げて認めた後、乾隆帝はまた公の場で彼を賞賛しました。つまり、常人でも賢明で心の広い人は、自分の欠点や間違いを指摘するよう他人を励ますこともできています。これは、「当事者はかえって事態の見通しがきかない」状態を最大限に回避するためですが、「傍観者」は素早く明確に見えた問題を指摘することができるということです。

 常人もそうすることができるのに、私たち修煉者はなおさらです。もちろん、修煉の主な形式は、他人に問題を指摘されることに頼るのではなく、法に照らして自分を修煉し、トラブルにぶつかった時に自分の内に向けて問題点を探し、同修と「比して学び、比して修す」(『洪吟』「実修」)ということです。もちろん、修煉の仕方を知らない人は、他人から問題点を指摘されても、自分の正しさを強調し、常人レベルの正当性を主張し、弁解に終始することが多いのです。この場合、強制的でなく、相手の事情や心情を配慮すべきです。結局のところ、修煉は自分の心を修めなければ、向上したいと思わなければ向上できないのです。

 旧宇宙は「壊滅」の時期にあり、多くの古い神々の思想は変異しています。例えば、旧勢力は2億年前から按排し、多くの大法弟子が迫害され死亡したのに、常に自分たちが正しいと思っており、自分たちの間違いを見ることができません。旧勢力は大法弟子の執着ばかりを見ていますが、2億年の按排の中で、自分たちがどれほど多くの間違ったことをし、執着してきたことを見ていません。これは「当事者は正確に判断できないが傍観者は正確に判断できる」ということなのかもしれません。

 以上、私の個人的な悟りであり、あくまでも参考にしていただければ幸いです。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/3/18/491738.html
 
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