ヨーロッパの大法弟子 子供弟子から受けた啓示
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文/ヨーロッパの大法弟子  

 【明慧日本2021年6月8日】息子は幼い頃から家庭環境の中で法輪大法に触れていましたが、実際は真に修煉を理解していませんでした。無神論や「科学」に毒害されてきた修煉していない夫もまた、これらの観念を子供に教え込み、息子に一定の影響を与えました。嬉しいことに、私と一緒に法を学んでいくうち、少しずつですが、息子も修煉の道を歩むようになりました。師父のご導きに感謝しています!

 純真で観念もない子供はよく私の問題点を率直に指摘してくれます。それは、師父が息子の口を借りて私を啓発されているのかもしれません。同修たちにも参考になればと思い、そのいくつかをご紹介します。慈悲なるご指摘をお願いします。

 (一)

 中共ウイルスが流行して以来、息子は必ずマスクをつけて外出していました。「大丈夫よ。あなたは大法弟子だから。大法弟子はそもそも業力や菌を除去することができるのよ」と私が言うと、息子は「あまり精進していないから、僕にもそのような能力があるかどうか、正直言って自信がないんだ」と答えました。私は「修煉していれば、師父は必ず見て下さっているのよ」と伝えたと同時に、彼が以前のように「科学」の観点から物事をみるのではなく、修煉の角度から問題を考えていることに安心しました。

 先日、息子と一緒に学法していた際、このような一節を学びました。「私たちも常人が薬を飲んではいけないと言っていません。ただあなたの悟性が足りず、この関門をよく乗り越えられなかったと言うだけです。私たちも修煉した以上薬を飲んではいけないと規定していません。このような堅い規定を作っていません」[1]。その日、まだ薬を飲んでいる同修がいることについて息子と話していたので、私はさっそく息子に、「ほら見て、師父は薬を飲んではいけないという規定はないと言っているでしょう。飲むか飲まないかは好きなようにすればいいのよ」と言いました。

 息子は淡々と、「なぜ、師父のお言葉をこのような気勢激しく人に迫るような態度で解釈するの?」と言いました。

 私は一瞬、呆然としました。正直に言うと、私はよくこのようなことをします。師父の神聖な法に自分の観念を加えてから自分の口調で話します。他人を説得するための場合もあれば、自分の正しさを証明したい場合もあります。話すとき、自己保護のための口調や自身の心が狭いといった要素も加わるため、師父の法にある洪大な内包から遥かにかけ離れてしまっています。その結果、相手が受け入れられず、他人を感動させる効果はなおさら得られないでしょう。

 何より、自分の観点や意見の正しさを立証するために師父の法を用いることは、大変不敬なことです。これは大法を利用しているのではありませんか? 数年来、私はずっとこのようなことをしてきて、どうして気づかなかったのでしょうか? 本当に恥ずかしい限りです。

 (二)

 党文化の影響を大きく受けていた同修がいます。数年来、彼女はその大部分を取り除いてきましたが、会話の中で自分の意見と対立する話を聞くと、声がどんどん大きくなり、話すスピードも速くなり、他人に口を挟む余地をまったく与えず、スカッとした気分になるまで話し続けてしまいます。ある日、この同修から再び電話があり、意見が合わなくなると、彼女はまたも集中砲火を浴びせるような言い方で叫び始めました。二言三言言い返しましたが、まったく割り込む余地がないとみて、私は電話を切りました。

 そのとき、隣にいた息子はこう言いました。「そんなに大きな声を出さなくてもいいでしょう」。 知らず知らずのうちに、自分も音量を上げてしまっていたことに私はやっと気づきました。「大きな声で話さなければ、まったく話す機会がないのよ」と、私は弁明しました。息子は「相手の声がどんなに大きくても、お母さんは大声を出すべきではないよ。ペースを上げず、落ち着いた気持ちで対処すべきだよね」と言いました。

 私はすぐに分かりました。「息子は正しかった。実際、この同修は私の鏡ではないか? 私も党文化の影響で、音量や話すスピードで相手を制しようとしたのではないか? 自分は彼女ほどひどくないかもしれないが、結局は五十歩百歩だ」。同修と息子のおかげで、私は自分にも党文化の要素があることに気づきました。

 (三)

 今年(2021年)に入り、私はほぼ月に1回、またはもっと少ない時間で『轉法輪』を暗記しています。しかし、私はこのことを他人に話さないようにしています。なぜならば、法を暗記した経験を何人かの同修と共有した後、自分が法に符合しない言動をしてしまったとき、「法を暗記したのに、まだこんなことをするのですか? あなたの暗記は本当に時間の無駄です」と言う同修もいれば、「こんなこともきちんとできないなら、法を覚えて何の意味がありますか?」と言う同修もいます。それから私は黙っていました。これは、私が困難に遭遇したとき、問題をポジティブにとらえることができず、マイナスの教訓しか得ていなかった表れです(執着心を持たずして法の暗記について交流するのは、もちろん良いことだと思います)。

 ある日、私は息子と暗記の話をしていて、法を暗記した自分が同修の目には「君は労働模範だから優秀だ」と映っていると言いました。そのとき、私は内に向けて探すこともせず、そう発言した同修が私に対して嫉妬心を抱いているんだと言い訳しました。息子はこう言いました。「人はそれぞれ資質が違うので、お母さんは本をよく暗記できたかもしれないけど、本を数回しか読んでいない人ほど大法をよく理解できていないかもしれないよ。人はそれぞれ、スタートラインや悟性が違うからね。お母さんが大法を覚える努力をしたということは、お母さんが敬虔だということしか表していないと思うよ」。

 「うん、一理ある」と口では言うものの、「できるだけ早く大法に同化しようとして、私は数年という年月をかけて、多くの困難を乗り越えて暗記してきました。大法を学んだばかりの人よりはマシではないか?」と考えていました。しかし、私はすぐに自分には顕示心があることに気づきました。まさに自分を顕示したい、人に認めてもらいたいといった心が働いていて、他人からそう言われ、そう「直される」ことを招いたのでした。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『米国法会での説法』「ニューヨーク法会での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/22/422386.html)
 
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