【明慧法会】堅持し、心を尽くし、着実に修め、向上する
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――寂しいプロジェクトの中で着実に修煉する

文/明慧翻訳チームの大法弟子

【明慧日本2021年7月7日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は2005年の秋から英語明慧の翻訳に参加して、すでに16年が経ちました。 私がこのプロジェクトを知ったのは、ショッピングセンターで、偶然に明慧に関わっていない同修に会ったときに、「あなたは明慧の翻訳に参加すべきです。中国語で文章を書いた経験があり、専門も英語ですから、とても向いていると思います」と言われました。その後、英語明慧に携わっている他県の同修にも会い、偶然のように、英語明慧の翻訳チームに参加することになりました。これは師父が『二〇〇四年米国西部法会での説法』の中で説かれた内容と同じです。「実はあなたが学んだものもあなたにこういう願望があったから、当初按排してあげたのです。なぜならば、法を実証する時に必要だからです。これだけに過ぎません」[1]

 自我と私(し)を放下して、着実に使命を果たす

 明慧ネットは特別なウェブサイトであるため、セキュリティと機密性の要求が特に高く、プロジェクトの参加者は目立たないようにし、お互いに連絡してはいけないので、お互いの名前も知りません。会議の時でさえ別名を使っています。15年の中で、プロジェクトの同修のうち3人としか接触したことがなく、彼らは相前後して私のチームの協調人になったからです。 そのため、日頃の修煉の中で、あるいはプロジェクトの中でぶつかったさまざまな困難について、相談できる人、理解してもらえる人、交流ができる相手がなく、すべて自分で考え、向き合い、解決していかなければなりませんでした。長い年月が経って、この仕事のやり方と要求は、私にとって特別な試練となり、つまり孤独と寂しさでした。現地では、同修の間でお互いのプロジェクトについて尋ねることが多いのですが、私はその話をいつも避けていました。そのため、時には地元の同修の間に誤解や断絶感が生じ、さらにはプレッシャーを感じたこともありました。

 1、2年は大丈夫でしたが、10年以上続けてとても寂しい思いをしたことがありました。自分の努力が法を正す中でどのような役割を果たしたのかわかりませんでした。私は、自分がなぜ明慧の翻訳をするのだろうか、明慧翻訳の意義は何なのかを自問自答しました。時には、別のプロジェクトをやりたいと思うことがあります。せめて一緒に参加している同修が誰なのかわかり、あるいは同修が誰かわからなくてもみんなと交流できるプロジェクトであれば、などと考えたことがあります。

 このような思いが何回かありましたが、最後までプロジェクトを続けるべきで、責任があるという考えからは離れませんでした。しかし、本当に心が安定したのは、プロジェクトを離れたいという気持ちの背後にある執着心に気づき、その心を取り除いた時です。

 孤独は修煉者の意志をすり減らし、気づきにくい心でもあると悟りました。 寂しさを感じるのは、まさに心が静かでないことの現れなのです。交流する相手がいないと感じる心は、外に向けて求め、他人の修煉の仕方を聞きたい、修煉の近道をしたいと思う心でもあり、その背後には、内に向けて探したくなく、関を乗り越えたくないという気持ちや、誰かに具体的なことを教えてもらうことを期待し、自分がその通りにすればいいのだという執着です。しかし、修煉は便乗することができず、お手本になるようなものもありません。深く考えてみると、同修との交流を通じて自分を激励して精進する目的を達成しようという考えは、それ自体が正念とは言えません。なぜなら、それは理性から大法を認識することであり、師父を信じるという正念を固めたとは言えないからです。師父は『轉法輪』の中で、「修煉するかしないか、修煉できるかどうかは、すべて自分の心性をどうやって向上させるかにかかっています」[2]とおっしゃっています。実際、師父は、私たちが生活、仕事、社会の中で様々な事に出遭う時にどうすべきか、すでに教えられました。私たちが法を学びたいかどうか、法が本当に頭に入るかどうか、この法に従えるかどうかの問題です。

 一方、どんな困難に遭遇しても、それは自分の心の現れです。どのプロジェクトに参加しているかと問い詰められた時は、自身の執着心がもたらしたのではありませんか? 聞かれることを恐れれば恐れるほど、好奇心が強い同修に聞かれるのです。同時に、自分の名利心や認められたい心も曝け出されるのです。自分が何のプロジェクトをやっているのか答えられないとき、同修の軽蔑した態度や厳しい言葉で、本当に心をえぐられるほどの辛さを味わいました。後になって、辛いのは本当の自分ではなく、自分を守り、自分を傷つけたくない心だったと分かりました。これを悟った時から、問い詰められたり、軽蔑されたりすることは二度とありませんでした。

 また、中国国内の資料拠点の同修のことを思い出すと、その機械的な退屈さ、地味で機密性の中で、彼らの耐え忍ぶ姿には誰も及ばないと思います。ましてや少しでもズレが生じると、命の危険にも直面します。それに比べれば、私たちの小さな苦しみは何でもないことです。

 ボランティア意識を変え、多くの時間を割いて翻訳する

 長い間、週に1〜2篇のペースで翻訳をしていました。このスピードは自分にとってすでに限界だと感じていました。普段、常人の仕事が忙しく、週末には法を広める活動や煉功に参加し、毎年の神韻の時には、ポスターやポスティングなどの宣伝活動に出かけることも多くあります。長い間、もっと翻訳したいという強い願望があるだけで、ずっと突破できませんでした。その感覚はまるで自分の髪の毛を引っ張って一生懸命飛ぼうとしても飛べないような感じです。

 法の力がなければ、精進したいという願望に頼るだけでは向上することができず、法だけが自分を変え、徹底的に修煉状態を変えることができると悟りました。

 師父はこのように説かれています。「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[3]

 そこで、私は法を暗記し始めました。法を暗記している時、慈悲深い師父は毎日、異なる法理を現して下さいました。私の修煉状態も飛躍的に向上していき、この停滞した状態は、法を暗記する中でようやく突破しました。

 私はまず、時間がないことを突破しました。私は常人主流社会の上級管理職の仕事をしています。知らず知らずのうちに、自分でも気づきにくい仕事をする心を形成しました。その仕事をする心に動じられ、すべての仕事を早く上手に終わらせたいと思い、結果的に悪循環になり、仕事の量がどんどん増えて残業が常態化してしまいました。毎日帰宅が遅くなり、夜中の発正念をするまでに、学法と煉功をするのがやっとでした。このような状況下で、多く翻訳することは不可能です。

 自分の仕事をする心に気付いてから、その心を取り除き始めました。私は師父の写真の前で、仕事をする心を捨てて、もっと多くの時間を、人を救うことに使いたいと師父にお願いしました。師父は弟子の心を見て、すぐにヘッドハンティング会社に手配して私を訪ねさせ、10人しかいない小さな会社での職を提供してくださいました。もちろん試練もありました。それと同時により大きな会社、より良い職位が私のところに回ってきました。全く違う二つのキャリアアップの道に直面して私は動揺したことがあり、私の狡猾な仕事をする心は消滅したくなかったのです。「私はより高い職位に就いているため、より多くの主流社会の人々と接触することができ、より良く法を実証し、さらに神韻を宣伝することができ、より良く真相を伝えることができる」と考えていました。しかし、より高い職位、大きな会社、多くの責任を負うことは、多くの時間と精力を注がなければならないことを知っています。そうすると、個人の修煉と明慧翻訳を突破することは難しいと考えました。 そこで私は会社を辞め、小さな会社に就職しました。

 それから2年経ちましたが、この選択は正しかったと思っています。今の仕事はさすがに楽になりましたし、特別な事情がない限り定時に退社することをルールにしているので、そうすると、毎日2時間の翻訳時間を増やすことができました。

 精進すればするほど、魔難から抜け出しやすいと感じました。例えば、以前は限られた時間の中で、翻訳するか煉功するかで悩んでいました。ある同修は「夜0時前や朝の発正念のあとの時間はいつも煉功に使わない、一番いい時間帯は人を救うために使うものだから」と言ったことがあります。これを聞いて偶然ではないと思い、その日からスケジュールを変更し、毎日の五式功法を夜の発正念の後、あるいは朝の仕事に行く前に終わらせることで、翻訳の時間をもっと増やすことができました。それと同時に、翻訳グループの学法に参加するために、時間を調整しました。毎日のチーム学法に参加することで、とても励まされました。自分には所属がないという感じがなくなり、翻訳が自分の使命であることを日々意識するようになりました。

 しっかり自分を修めてこそ、より良い翻訳ができる

 どんなプロジェクトに参加しても、修煉状態が反映されますが、翻訳も同じです。 翻訳の仕事をするうちに、文章を受け取って翻訳し、完成するという機械的な繰り返しに陥りがちです。心を修煉に置いていなければ、時間が長くなると、繰り返し、重複した機械的な作業になってしまいます。それを突破するには、常に自分が修煉者であることを忘れてはいけません。本当に修煉したいと思うのであれば、同修と接触しないプロジェクトの中でも、取り除くべき心を、一つも見逃すことはありません。

 例えば、余計なことを長ったらしく書いてある文章があります。時には、文章の中に、言葉がふさわしくなく、前後が通じず、何度も読んで筆者が何を言おうとしているのかようやく理解することもありました。また、明らかに時間に執着している文章や、一日中携帯電話を触っていても改めないという文章もありました。 報道記事の中に党文化の言葉が使われたり、煉功している写真がうまく撮影できていないような記事や文章を目にするたびに、私のネガティブな考えが出てきて、文句を言いながら翻訳することが多かったのです。 長い間、他人を軽蔑していて、他人を見下す心が自然になっていて、自分でも気づきませんでした。

 例えば、ある非常に短い文章を翻訳したことがあります。この同修の状態が良くないので、それを突破しようとしているのですが、状態が良くないという言葉が分かった以外、その文章は何を書いているのか繰り返し読んでも分からず、短い文章を、数日経っても翻訳できませんでした。その時、焦る心や不満がどんどん強くなり、協調人に別の文章に変えてほしいと言おうとさえ思いました。その後、かろうじて翻訳はできましたが、西洋人の校正者の校正を読む勇気もなく、ようやく勇気を出して読んでみましたが、修正だらけでした。自分を修める時が来たのだと悟りました。

 人を見下す心は嫉妬心だと知っており、自分の人を見下す心はすでに自然になっていると分かりました。私自身も、この心を取り除きたいと思っているのに、なかなか取り除くことができません。取り除くことができないのではなく、それを捨てようとしないのだと、法を暗記することを通じて分かりました。何らかの執着心があることに気づき、向上したいと思うだけでは不十分で、また、法を暗記したり勉強したりするときに良い状態にあるだけでも不十分です。どの弟子も向上したいと思い、どの弟子も学法の時に良い状態にあり、大切なのは本当に自分に向けて探し、意識的にその心を取り除くことこそが真の修煉です。考えてみてください。他人の文句を言い、他人が良く直したら自分はどうでしょうか、他人がうまくできて自分はどうでしょうか? むしろ、自分が見えたことは、すべて自分の執着心をさらけ出し、自分を向上させるものではないでしょうか?

 他人を見下す心や嫉妬心は、また自我とつながっていることを悟りました。自己中心的な考えがあるから、他人の良いところが見えず、善を持って他人を寛容し、理解することができません。さらに探してみると、これは旧宇宙の私(し)の特性が自分の中で現れたのではありませんか? 旧勢力は「私」から衆生や大法弟子に対して破壊的な試練を与えたのではありませんか? もし、この骨にまで滲み込んでいる「私」と自我を取り除かなければ、旧勢力に束縛され、どうやって新しい宇宙の生命になることができるでしょうか? 

 これらに気づいて、師父が要求される「人を救うことをよく行うために、自分をしっかりと修めなければならない」ということが理解できました。 私は徐々に、一つの念、一つの考えを把握することを学びました。一つの考えが出てくるたびに、その考えが法に則っているかどうかを把握し、もし法に則っていなければ、その背後にどのような心があるのかを確認しました。そうする中で、法に則っていない観念や、自分でも気づかなかった執着心を識別することができるようになり、これらの偽りの自分を排斥し、抑制し、これらの悪い考えに沿って考えないようにし、少しずつそれらを取り除きました。

 自分の心が法に符合していれば、同修が悟った法理や師父への感謝の気持ちを西洋人の同修に分かち合い、あるいは大法の素晴らしさを人々に伝えたいという気持ちで、一心に翻訳していると、師父の慈悲のご加護に感動し涙が出ることがよくありました。このような状態では、翻訳は早く、うまくでき、修正する箇所も少ないのです。状態が良くなければ、同修の文章が気に入らない時など、頭が固まったかのようになり、いくら絞っても知恵が出て来ないので、一字一句ずつの翻訳しかできず、うまく翻訳できないうえ、なかなか進みません。

 また、この翻訳プロジェクトの中で、自分のもう一つの、外に目を向けて他人に厳しく要求する心を取り除きました。 私が明慧翻訳チームに所属している16年の間に、3人の同修と接したことがありますが、それは相前後して私のチームの協調人でした。 彼らから善意の力、そして純粋な善だけが人を変えることができることを切実に体験しました。長年にわたり、私は緩んだ時、焦った時、失敗した時、「今度は叱られるだろう」、あるいは、「今回はきっと批判されるだろう」と思ったことがあります。 しかし、私が批判されることを覚悟したとき、彼らから聞こえたのは、寛容と理解、そして励ましの言葉でした。同修のメールを受け取るたびに、私は驚き、感動し、このプロジェクトに残ることを堅く決意しました。

 ある日、私は「なぜ彼らの物事の対処方法、話し方に驚くのだろう?」と自分に聞いてみました。それは、自分ならそのような方法で問題を処理しないからです。自分ならどのように対処するでしょうか。自分なら、自分の基準で他人に要求し、自分の基準に満たない場合は「正義感あふれる厳しい言葉」で批判するはずです。また、同修たちはいつも反語文を使わないのです。例えば「これこれを、あなたは知らないのですか?」、「以前、すでに教えたではありませんか?」、「また、同じことを繰り返したのではありませんか?」などです。このような言葉は、すでに私の習慣となり、簡単に口から出てしまう言葉です。同修たちは優しく、穏やかに話していて、これが修煉者だと思いました。同修の言動を通して、私は常に自分と比べて学び比べて修し、党文化の責めるような話し方、攻撃的な口調を意識的に変え、自分の言動からこれらの根深い観念や党文化の要素を取り除くように心がけました。少しずつ実行していくうちに、私は心が落ち着き、翻訳の効率も上がってきました。

 これ以外に、さまざまな執着心が少しずつ取り除かれることによって、自我も少なくなり、自我を取り除いていくと、だんだんと協調するようになり、プロジェクト全体のために協力したり、他の同修のことを配慮したりすることができるようになりました。私は注意事項を読むようになり、また、翻訳を始める前に、文章の読者が誰なのかを意識して何度か目を通してから翻訳します。もし、文章の読者が一般の常人であれば、同修が話した高度な法理や超常現象を、修煉していない欧米人が理解できる言葉に書き換えて、その人たちに大法の素晴らしさを実感してもらえるように翻訳します。報道文を翻訳する場合は、まず既に掲載されている似たような文章を読んで、どのように表現しているかを確認してから、翻訳をするようにしています。翻訳が完了した後は、ようやく課題を完成し、急いで提出するのではなく、読者の立場で文章を2回読んで、全体を見て読者が理解できるかどうか、もっと良い表現がないかなどを確認してから提出するようにしています。

 私は、自分の非常に良くない習慣を発見しました。それは、せっかちで、早口で喋り、ササッと歩き、何かをしようと急いでやり、手の動きは脳よりも速いのです。この習慣は翻訳にも反映されていました。以前は時間を節約して急いでいるために、手順の紹介や注意事項を詳しく読んでおらず、すぐに着手したので、常識的なミスをすることも多くありました。基本のことを修正するのに、校正者は多くの時間を費やしました。このせっかちな物質は、いまだに完全には取り除けていません。時には発正念をする前に、急いで原稿を提出してミスをすることがあります。慌てて原稿を提出した結果、いつも見落としがあったり、基本のことの確認を忘れたりして、違う文章を提出してしまったこともあり、時間を節約できないばかりか、協調の同修に面倒なことをもたらしました。これらはすべて党文化の中で形成された成功を焦る心、浮ついている心だと分かりました。今後はこのような良くない物質を取り除いて、もっと穏やかな心で翻訳をするように気をつけます。

 翻訳レベルを向上させる

 私は英語と文学を専攻していましたし、中国語メディアでの記事作成を数年経験していますので、英語と中国語の両方とも実力を持っています。本来であれば、翻訳はもっと良くできるはずですが、長い間、私の翻訳レベルが留まっており、言い換えれば、自分の翻訳レベルが向上したかどうかを気にしていませんでした。協調人が割り当てた仕事に対して、どんなに急ぎの文章でも、仕事を休んで、食事と睡眠をせずに、一切の困難を克服し、予定通りあるいは予定より早く翻訳できました。翻訳のレベルは自分が向上したいと思ったからといってすぐ向上できるようなものではなく、とにかく尽力しましたので、質は自分でコントロールできる範囲内のものではないと思っていました。

 しかし、修煉が上達し、少しずつ高い基準で自分に要求した時、 例えば、法を正すことが終わって、師父に対して「自分のできることは行いました」と心から言えるかどうかを自分に聞きました。私は「全力を尽くしました」と、あえて師父に答える勇気がありません。というのも、私は自分の技術を向上させる面で修めていなかったことに気づいたからです。日頃、常人社会の中で自分の知識を高めるための時間と努力を払いたくなく、西洋人の同修が校正した文章を詳しく読まず、どこがうまく翻訳できなかったかを一文一句、確認することもしませんでした。英語版の明慧ネットも滅多に読まず、翻訳ができない時に、調べるためにさっと見るくらいです。実際、毎日1篇でも英語の記事を読み、毎回修正された翻訳文をじっくり読むことができれば、積み重ねていくと、私の翻訳レベルは留まることはないでしょう。

 時間をかけて翻訳レベルを高めようとしないことは、やはり「私」と自我が原因であることに気づきました。また、翻訳の質は、校正者のために考える思いやりの心を持っているかどうかにも関係していると悟りました。自分がしっかり翻訳できれば、自然と次の同修の時間を節約することができ、文章を早く仕上げることができ、大法弟子全体の資源と時間を節約できるので、他の同修がより多く法を学び、煉功、発正念ができ、共に自分を向上させ、協力してプロジェクトを成し遂げることができます。

 ここで、他のプロジェクトに参加している同修にも伝えたいのですが、私は「自分はやり終えたので、彼らが好きなように修正すればいい」という話をよく耳にします。また、他のプロジェクトの同修からは、「修煉するために来ているので、専門的な知識を勉強する時間がない」という声が多くあります。実際には、これもプロジェクトに対する責任感がないことや、自分の怠慢を反映しています。 本当にプロジェクトをよりよく行いたければ、心を込めて学び、時間を費やして専門知識を勉強することは、非常に価値のあることだと思います。そうすれば、師父が知恵を授けてくださり、本当に短い期間内で不可能を可能にすることができます。それによって、私たちのプロジェクトはうまくいくのです。

 翻訳プロジェクトで得たこと

 長年の翻訳プロジェクトに携わる中で、私は中国語の明慧ネットを毎日読む習慣を身につけました。特に、同修の各種の修煉体験文を詳しく読んでいます。 毎日、明慧ネットを読むことは、毎日の法会に参加し、あるいは毎日の集団学法に参加するようなもので、同修の交流文章の中から啓発を受けて、収穫が多くありました。十数年が経ち、この習慣は自身の修煉に大きな役割を果たしました。

 私は、同修が生と死の間にどのように病業から抜け出したか、どのようにお金や仕事、住居のことまではっきりと放棄したのか、屈辱を受けて苦しんでいる時にどのように無条件で内に向けて探したか、どのように法を暗記し、睡魔を突破したのか、どのようにして情に惑わされる中から抜け出したのかを見てきました。 同修たちは様々な心がえぐられる苦しみと闘いの中で、みな師父の法に頼って、正念を固めた後に乗り越えてきたことを、私は見てきした。これらの文章を読んでいると、まるで同修が自分のそばにいて、正念とは何か、正しい行いとは何か、そして正念と正しい行いの中で師父が見せて下さった広大な佛恩とは何かを、一緒に体験しているような気がしました。

 時には、自分が関を乗り越える時、ちょうど翻訳している文章にも同じことが書かれていることも多くありました。同修が文章の中に引用している師父の説法は、すべて私の問題点を指摘するものでした。慈悲なる師父は常に弟子たちのことを見守っておられます。この中で、私は落ち込んだときに悪い観念に負けず、正念をしっかり持つことができました。魔難に遭遇したとき、毎回同修のように立ち上がり、師父の法を暗記しながら力を振り絞って、師父の導きに従って関を乗り越えようと努力しました。

 結び

 十数年間を振り返って、転んだり立ち上がったりして、しっかりできなかったことによって残された悔しさが多くあり、同時に師父の慈悲なる救い済度のご恩に感謝する気持ちも強くなりました。弟子がどんなによくできなくても、師父は弟子の良く行いたいところだけを見て、弟子を見守り、うまく行った時には励ましてくださり、うまく行えない時には悟らせてくださり、それでも悟らなければ何度も悟らせて、神の道にずっと導いて下さいました。

 また、この場をお借りして、努力し続けた中国語の明慧と多言語の明慧の同修たちに感謝します。不必要なトラブルを避けるために、明慧の同修は、他の同修のように、所在地区で自分の体験を共有したりすることはできません。特に中国語の明慧の同修は、大きなプレッシャーに耐えています。節句や記念日には、世界各地や中国の大法弟子からのお祝いのメッセージや交流文章が送られてきます。これらの文章を編集し、まとめて、掲載するために、同修たちがどのように徹夜をして努力したか想像できます。

 偉大な師父がおられ、偉大な法があるから、明慧の同修たちが圧力と魔難を克服することができ、10年、20年と、何も見えない寂しさと孤独の中で、最も地味なプロジェクトの中で、一日一日と歩んできました。この文章をもって、同修たちと励まし合い、注意を喚起し、比べて学び比べて修し、師父のご恩に応えたいと思います。今後の道がどれほど遠くても、師父の慈悲なる救い済度のご恩に報いるために、一緒に精進しましょう。

 再度、師父のご恩に感謝いたします!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」

 (2021年明慧法会交流文章)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/7/5/427779.html)
 
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