【明慧法会】明慧プロジェクトの中で自分を修める
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文/韓国の大法弟子

 【明慧日本2021年7月14日】

 師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は2014年に修煉し始めて、2018年に以下の師父の説法を読んでから、ぜひ明慧の仕事に携わりたいという考えを持つようになりました。

 師父:すべてのメディアは人を救っており、素晴らしいのです。皆、法を正す中で大きな作用を働き、この上ない功徳を樹立しました。しかし、明慧ネットだけは大法の対外的な窓口であり、大法弟子が修煉について交流する場です。大陸の大法弟子も含めて、明慧ネットは世界の隅々にいる大法弟子の交流の場なのです。これはどのメディアにもできないことで、代えられないものです。ほかのメディア以上の無量の功徳を樹立したのです!(弟子の皆さんが熱烈に拍手し、師父は手を立てて返礼された)

 先ほどの話にあったように、彼らは黙々と仕事をしており、誰も彼らの仕事の内容を知らないうえ、大法弟子の活動に積極的に参加していないと誤解されています。身も心も磨耗しており、夜遅くまで仕事をして、人手も足りないという困難な状況下で取り組んでいます。修煉にとってどういうことが最も素晴らしいのですか? 最も偉大なのですか!? 特に大法弟子が最も困難な状況下で、修煉者の声を聞きたい時、(師父が心を打たれた表情を見せられた)明慧ネットの存在は、皆さん考えてみてください、これはなんと素晴らしいことでしょう。必ず大事にすべきです! どんなに難しくても、それは威徳だからです。(弟子の皆さんが熱烈に拍手)[1]

 2020年2月、ここ2~3年メディアで培った校正経験を活かそうと思って、私は明慧ネット韓国の協調人に連絡し、校正チームに加わりたい意向を伝えました。しかし、後に連絡すると約束してくれた協調人からは連絡がありませんでした。「やはり私には明慧に参加する威徳が足りていない」と私は思いました。学法や内に向けて探すことを通じて、私は明慧に参加したいという気持ちの裏には、威徳を積み、自分を実証したいという強い執着心があることに気づきました。3カ月後、協調人から、明慧の校正に参加できるとの連絡を受けました。

 一、文章全体を書き直す経験

 2次校正を担当する私は、翻訳及び1次校正が終わった文章に不満を持つことが多くて、文章を読みやすくするために、よく文章全体を書き直してしまいました。タイトル、段落、フレーズなど自分の意に合わない部分であれば、全部直してしまうのです。書き直した後、身体が重い力に押し付けられる感じがして具合が悪くなっても、業力の消去だとしか思わず、やり続けていました。

 ある日、文章中のある小見出しは意味がないと思って、その内容全てを勝手に削除しました。翌日、文章を翻訳した同修がグループチャットで小見出しを削除した理由を尋ねてきました。私が理由を説明した後、翻訳者も自分の意見を述べました。議論の結果、削除された部分は保留すべきとなりました。私は同修に謝り、その部分の内容を再校正しました。

 今回のトラブルの中で内に向けて探した結果、私は「自分が常に正しく、他人が間違っている」という心を持っていることに気づき、同修の文章を全部書き直してしまうのもこの心に由来していることに気がつきました。また、私には自分の校正能力が優れているという顕示心もありました。それ以来、2次校正で、私はできるだけ翻訳と1次校正の原意を保留するようにしています。

 二、怨む心を取り除く

 明慧に参加した当初、協調人に1日1篇を校正してほしいと言われて、私はできるだけ達成するように努力し、忙しいときは短い文章を選んで校正していました。また、私は翻訳や校正が上手な文章を選んで校正するようにしていました。しかし、このような文章がない場合、長文または読み辛い文章を校正するしかありません。この類の文章の校正には時間も手間もかかり、「どうしてこんなに下手なのだ」と心の中で愚痴をこぼすこともありました。師父は「苦をもって楽とする」[2]と説かれていますが、私のこのような心構えは実に修煉者の心性にそぐわないものです。

 特に修煉状態が悪いときは怨む気持ちが強くて、プロジェクトの中で同修たちが積み上げてきた努力と威徳をないがしろにしていました。また、私は他の2次校正者が短期間に複数の校正済みの文章をアップしているのを見る度に心のバランスを崩して、「私は1つの文章を少なくとも3回読み直すのに、この人たちはどうしてこんなに簡単に校正を終えるのか?」と思い、さらに嫉妬心に駆られて、「このような雑な校正でいいなら、私はきっともっと多くの校正を仕上げている」と考えたこともありました。

 明慧に関わった当初、この怨む心にはあまり気づいていませんでしたが、時間が経つにつれて、徐々に認識できるようになり、校正の過程で絶えずこの良くない心を取り除くように努力しています。今はだいぶ取り除いたと思います。しかし、この心は一層一層と蓄積されてきたもので、たまにはまた表に出てきます。そのとき、私はすぐに取り除くようにしています。

 三、安逸心を取り除く

 校正をしていると、理解しにくい単語やフレーズに出会うことは避けられません。その場合、原文の該当箇所を探して翻訳ソフトにかけ、出てきた訳文を参考にするのが一般的なやり方ですが、時には、翻訳ソフトを使っても、なかなか理解できません。そのとき、私は原文の意味を大まかに推測してから校正文として仕上げ、これで十分だという安逸心がありました。

 時には、文章中の中国語の固有名詞のハングル表記が明確でないとき、1つ1つ調べて照らし合わせなければならず、地名表記や事実の正確性を確認する必要があるとき、私は「なぜ2次校正でこなんことまでしなければならないのか?」と思い、また楽に校正したいという安逸心が浮かぶのです。 

 大きな威徳を打ち立てていると師父が言及された明慧に携わる幸運を預かっているにもかかわらず、私は楽に校正しようと考えていました。この心に気づいたとき、師父に大変申し訳ないと思いました。安逸心を見つけた後、再び理解しにくい内容に出会った時、私はグループ内で同修に大筋を訳してもらい、文章中の中国語の固有名詞のハングル表記や地名表記などをより注意深くチェックするようにしています。

 四、指摘されたくない心を取り除く

 修煉前、私は指摘されるのを特に嫌っていましたが、修煉後だいぶよくなりました。しかし、あまりよく修めていないと思われる同修に言われると、私は受け入れないだけでなく、相手に攻撃的になってしまいます。

 あるとき、グループ内で、自分の校正した文章が非難されました。校正時に皆がニックネームを使っているため、指摘した同修が誰なのか分からず、自尊心が傷つきました。その後のある日のグループ内会話の中で、「私ばかり指摘して、あなたはどれだけよくできているかを見せて!」と思った私はその同修に、「あなたが校正した文章を参考したいので、ニックネームを教えてください」と攻撃的な口調で言いました。その後、内に向けて探す過程で、責められたくない心の裏には、自分を守りたくて、相手を軽視する心があることに気づきました。修煉者に相応しくないこの恐ろしい執着心を取り除いた後、グループ内で再び指摘されても、私は心が動じなくなりました。

 五、校正した内容は、常に自分の向上に役立つものであった

 普段、私は主に「時事」と「迫害」文章を校正していますが、そのような文章がないとき、修煉体験も校正します。しかし不思議なことに、修煉体験を校正する度に、その内容はまさに自分の向上すべき点だったのです。先ほど言及した怨む心も、修煉体験を校正する過程で認識するようになったのです。 

 修煉し始めた当初、私は明慧ネットのほぼすべての修煉体験文章を読んでいましたが、時間が経つにつれて、私はタイトルであらかじめ内容を判断し、読む価値がありそうなものだけを選んで読み、しまいには修煉体験を全く読まなくなっていました。背後には、自分が他人よりよく修めているという心がありました。師父はこのようにおっしゃっています。「煉功者は陰陽のバランスを重んじますが、身体は松の匂いがぷんぷんするのに、本人は良く練っていると思い込んでいるのです」[3]。これはまさに私の状況だと思います。明慧に参加してから、私は以前より頻繁に修煉体験文を読むようになりました。これは、他の同修の交流文章をよく読むようにとの師父からのご啓示だと思います。

 六、良い修煉状態を保てば、半分の努力で2倍の結果が得られる

 学法や修煉の状態が良い時、校正作業もスムーズに進みます。修煉状態が良い時、翻訳や校正が苦手な人でも、校正をほとんど必要としない良い文章を書けると思います。逆に、きちんと法を学んでおらず、人心が生じてきて、修煉状態が良くないとき、翻訳や校正が上手な同修の文章にも多くの校正箇所が現れて、多くの時間がかかってしまいます。

 師父はこのようにおっしゃっています。「長年の経験から、皆さんはこのことを深く体得しています。どんな仕事に就いていても、メディアの大法弟子も含めて皆、このことを分かっています。緩まず修煉をしていれば、多くの場合、少ない力で大きな効果をあげることができます。ですから、私たちは修煉をおろそかにしてはいけません。これは何よりも重要なことです」[4]

 また、真剣に法を学んでいれば、校正もやりやすくなるという求める心が私に深く隠されていると自覚しているので、これからはより純粋な気持ちで学法に臨んでいきたいと思います。

 以上は修煉過程でのわずかな個人的な体験です。妥当でない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 師父に感謝します!

 同修の皆さんに感謝します!

 合掌! 

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一八年ワシントンDC法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [4] 李洪志師父の経文:『二〇一八年新唐人と大紀元法会』

 (2021年明慧法会交流文章)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/7/8/427782.html)
 
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