文/西洋人大法弟子
【明慧日本2021年7月14日】
慈愛で偉大なる師父、こんにちは。
同修の皆さん、こんにちは。
私は47歳で、修煉を始めて10年になります。
私は2017年にスペイン語版「明慧ネット」の仕事に誘っていただき、今でもそれを光栄に思っています。この4年近く、明慧に参加したことで、自分の修煉状態が以前と違ってきたのがよく分かります。
私の仕事は、掲載前の文章の校正及び修正で、必要なときは翻訳もします。
プロジェクトに参加する中で、師父の説法や同修の精進する姿、及び私が校正した文章から刺激を受けて、私の「自分の修煉」に対する理解を問われ、挑戦され、啓発されました。
今回の修煉体験では、明慧に携わる中で、自分がいかにして真の修煉を目指していたかのプロセスを皆さんと共有したいと思います。
一、忙しい修煉環境の中でも、機械的な繰り返しや安逸心の落とし穴がある
この4年間、私は様々な修煉状態を経験しました。参加当初の興奮と、うまく協力していきたいとの強い思いから、神韻のような厳しいプロジェクトに参加しながら、明慧の仕事の緊迫性も実感する一方で、時間が経つにつれて、プロジェクトへの参加は機械的に作業をこなしていく状態になっていました。
中共ウイルスが流行する前の数年間、毎日明慧の仕事をしたいと思いながらも、実質的には断続的に参加していました。私の地区では同修が少なくて、私たちはほぼすべてのプロジェクトに参加しています。一見すると、これは私が明慧に継続的に参加できない「原因」にも見えました。協調人から指摘を受けて内に向けて探した結果、私は時間の再調整を行い、他の主要ではないプロジェクトをやめて、明慧に集中することを決めました。
内に向けて探して理性的な決断を下し、真・善・忍に照らし合わせて自分の行動を評価する私は、一見、修煉の道を歩んでいるようには見えますが、実質、私の心は全く変わっていませんでした。仕事はこなしたものの、学法しても法に同化したという感じがなく、発正念のときは集中できず、何日も煉功しないときもありました。
師父はこのようにおっしゃっています。「現在の人はずる賢くなっています。現在の人間はこのような心を隠すのです。しかも覆いをもってその心を隠すのです。このような人を見て本当に済度し難いと私は思います。このような人にその心を気付かせても、本人は既に自分の中に隠れているこの覆いと隠されているものに気付かなくなります。しかも、その人に肝心なことを気付かせ、私の法身が彼の肝心なところを指摘する時、彼は常人に対処しているように、私の法身を騙します。『私が間違った』と彼は虚像を作るのです。その後また他の覆いをもって自分が隠していることを隠すのです。他の覆いを使います」[1]
二、より深く隠されている執着心に気づく
自分の主意識がはっきりしていて強いと信じているにもかかわらず、この機械的に作業をこなす状態は中共ウイルスが流行する期間中にもっと悪化していました。その間、私は自宅で仕事をしていたので、大法の真実や中共ウイルスの正体、そして共産主義の亡霊がいかに世界を支配しているかを明らかにする記事をネット上に投稿する機会がありました。
知らず知らずのうちに、私は大法の仕事をルーティンのようにこなしていくことを修煉と見なしてしまいました。
転機となったのは、明慧への参加義務があるにもかかわらず、家庭、仕事、そして対面で真相を伝える活動を両立させようとすると、なかなか突破できないことに気がついたときでした。
師父はこのようにおっしゃっています。「人間は既にこの程度まで至ってしまい、どのように済度するのでしょうか? しかも、現在師父がここで教えており、弟子を指導しています。廟の中に見守ってくれる人は誰もいないのに、どのように修めるのでしょうか? 人間はここまできてしまい、どのようにすべきでしょうか!」[1]
私は、師父のお言葉に心を打たれました。
私には、家の前に610弁公室の人員もいなければ、政府からの迫害もありません。しかし、機械的に物事を進める私の習慣は私の安逸心と怠惰を映し出し、旧勢力による変わった形での迫害も映し出しました。さらに、嫉妬心や色欲、憤り、絶望感など、深く隠されている腐り切った執着心も映し出しました。
表面上、同修の前では、私は勤勉かつ積極的で、安定していて、絶えず「前進」している修煉者に見えるように振舞うことができます。
師父はこのようにもおっしゃっています。「ですから、私は皆さんにこれらのことを説きません。心に磨きをかけるしかありません。真の向上もこの心次第です。人の心が昇華しない限り、何も役立ちません」[1]
三、落とし穴や挫折を向上のチャンスに変えていく
このような心の葛藤を感じつつ、私はプロジェクトの仕事を続けて行い、頻繁に正念を発し、時には声を出して法を読み、学法に集中しました。また、地元の対面式グループ学法や明慧ネットのグループ学法と交流も欠かさず参加しました。
師父の新経文「理性」と「大紀元新唐人メディア法会での説法」を拝読してから、私はあることを悟りました。それは、自分が本当に精進していなくても、精進していないように見えるだけであっても、私はベストを尽くして自分を修め続けていかなければなりません。
言い換えれば、「自分の修煉」は偽装されたエゴを表現する一つのフレーズに過ぎず、大法の仕事を行うことは「修煉」ではないことが分かりました。欧米では中国本土とは環境が違うので、この環境を最大限に生かすべきだと思いますが、同時に、このリラックスした環境がもたらす別の問題や試練にも警戒し、常にはっきりした、醒めた主意識を持つべきだとも考えています。
自分を責めたり、うまくできなかった、または何もしなかったことで悔んだりするのは、旧宇宙の基準であり、旧勢力の基準です。今は個人修煉の時期ではありません。今こそ、自分を修めることによって衆生を救い、法を正す師に手伝う時期なのです。また、明慧で自分の役割を果たすことによって、ウェブサイトを読みに来る人々に希望を与え、同修たちを励ますことができると思います。
また、私はより純粋な心で仕事を行い、真に純粋な智慧を得て、より精進し、真・善・忍の基準に叶う真の自分に戻らなければならないと考えています。
師父はこのようにもおっしゃっています。「話したらそれを改めなければなりません。今日話しましたが、出かけて元の木阿弥のままで戻って来て、また写真の前で話すのでは、何の役に立つでしょうか? 悔い改めると先生に言ったなら、それを取り除く決心をすべきです」[1]
四、明慧ネットは浄土である
校正の過程で、ある中国の同修の体験談を読みました。彼女は20年間、衆生が救われることを妨げるもの、法輪大法の良さを信じてもらうことを妨げるもの、共産党からの脱退を妨げるものを排除するために、正念を発し続けてきました。彼女の兄嫁が脱党を嫌がっていて、彼女は無理強いせず、20年来、正念を発し続けました。兄嫁はついに共産党からの脱退に同意しました。彼女が言うには、すぐには効果が見られないかもしれませんが、私たちが日々絶えず行っている発正念は間違いなく、この空間及び他の空間で作用を起こしているのです。
同修の交流文を読んで、自分も自責の念や、すぐにプロジェクトや修煉の成果を求めようとする完璧主義といった旧勢力の按排に翻弄されてはならず、毅然とした態度で臨んでいくべきだと思いました。
『轉法輪』の第九講で、師父はこのようにおっしゃっています。「本当に修煉を決意した人にとっては、もし耐えることができ、さまざまな利益を前にして執着心を捨て去ることができ、そういうものに淡泊になれたら、こういうことを真に実行できれば、難しいことは何もありません。難しいと言う人は、こういうものを捨てられないからにほかなりません」[2]
修煉と精進は堅実さを意味しており、力任せではありません。三日坊主は一種の党文化なので、私は自分の行動や考え方からそれを排除しなければならないと考えています。
後で分かったのですが、師父が按排して下さった最も良い修煉環境や真相を伝える環境は、ある特定の場所ではなく、自分が良くできているという自己感覚でもありません。実際、自分の振る舞いや協力、連携の能力などを含め、自分が行っている全てのことにおいて、法を実証しているのです。
真の修煉とは、内に向けて探すという最も早く私たちを精進させることができる宝物の使い方を学ぶプロセスであり、一刻も早く執着心を手放すプロセスだと理解しています。
師父はこのように説かれています。「最後のこの間に皆さんはそれをさらに良く、さらに力強いものにし、緩めてはいけません。環境が緩和されればされるほど、緩んではいけません。環境が緩和されると安逸心が生じやすく、緩みやすくなるので、これではいけません。必ず明慧ネットをしっかりと運営すべきです」[3]
明慧チームの一員として、私には大きな責任があります。文章を翻訳または校正する度に、それが真相を伝え、法を実証する過程だと認識しています。その過程で、自分の欠点を見つけ、修煉を飛躍させ、よりよくプロジェクトを完成させることができるのです。
以上は現時点での自分の感じたことです。不足の部分があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
師父に感謝します。
同修の皆さんにも感謝します。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『長春輔導員法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「明慧ネット十周年法会での説法」
(2021年明慧法会交流文章)