修煉者の「苦」と「老い」を語る
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 【明慧日本2021年9月12日】私は、1年以上前に足を痛めてしまいました。今では立って1時間、法輪を抱えることができるようになりましたが、まだ少し不安を感じています。というのも、私は左足を骨折して以来、1年間、座って動功をしてきました。ですから今では、「頭上で法輪を抱える」にたどり着くと、必ず数分は座って休みたいと思うようになりました。

 今日、ふと思ったのですが、「昔、小道の修行をしていた人は、まだ人為的に苦労を求めていたが、私は宇宙大法で修煉しているが、まだ苦を恐れているのではないでしょうか? 苦を嘗めるという点では、私は小道の修煉よりもさらに悪いのでしょうか。では、大法の修煉について語る資格があるのでしょうか?  誰が苦を恐れているでしょうか?  それは後天に形成される観念であり、『偽りの自分』です。真の自己は、後天的な偽の自己に勝たなければなりません。ここで私は、師父の「主意識を強くもつべし」[1]、また「もし人がこのように腕を上げるだけで修煉が成就できるならば、修煉はあまりにも易しすぎるものになります」[2]という法を思い出しました。そう思うと、1時間の法輪を抱える動作も簡単に突破することができました。

 「年を取ると目が悪くなる」、「年を取ると耳が悪くなる」、「年寄りの気力や体力は若い人より劣るのが当たり前」などと、今でも納得してしまう知覚の障害があることに気がつきました。 古い宇宙は、成、住、壊、滅という法則に沿って進み、終わりを迎えていますが、大法によって作られた新しい宇宙は壊れず、永遠に変わらないのです。大法の修煉者は、師父が定められた道を歩いているのに、どうして古い概念、古い宇宙の理屈に従うのでしょうか? この観念を覆すことができなければ、旧勢力の仕組んだ道を歩いていることになるのではないでしょうか。

 疲れたら休みたい、眠かったら寝たい、食べたいものがあったら食べたい、うまくいったら嬉しい、うまくいかなかったら不安だ、などなど、人生のあらゆる場面に関わっている問題です。人生のすべては修煉の中にあり、すべての執着心は修煉者が取り除かなければなりません。

 いつものように、私達は大きなことをすることがテストであり、それが修煉であり、どうやってよくできるようになるのか、という事だけを考えています。 しかし、小さなことでも修煉の条件を満たせていないのに、どうして大きなことができるでしょうか。 実は、修煉には大きなものと小さなものの区別はありません。その結果、過去の自分の中の傲慢さ、尊大さなどを失い、自分の修煉に多くの問題や欠点があることを目の当たりにして、修煉とは何か、その本質とは何かを知らない、歩き始めたばかりの子供のような気持ちになりました。

 20年の修煉を振り返ると、本当に未熟で、つまずきながら今の状態に至っています。 それは修煉に伴う人心であり、師父の慈愛に満ちた御加護と丹念な教えに、本当にとても恥ずかしい思いをしています。 本気で実践し、本気で修煉してこそ、修煉の厳しさや素晴らしさを実感でき、修煉の本質を理解できるのです。それによって、人間的なものを進んで手放すことができ、当然、苦しみを喜びとして受け止めることができるようになるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/9/1/430307.html)
 
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