自分の観念で同修を判断しない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年1月2日】私は、同修のAさんが休暇を計画していると聞いて、とても残念に思いました。私はAさんに「時間が迫っており、皆は法を実証し、人々を救うために時間を大切にしています。どうしてまだ遊びに行く気分でいられるのですか?」と言いました。Aさんは「まだ時間はたくさんあります」と答えました。

 Aさんはまた、別の家を買うつもりで、それを改築する必要があると言いました。「もういい家を持っているのに、どうしてまだ買うのですか?」と聞くと、「銀行に預けても無駄ですし、共産主義政権はいつでもその金を差し押さえることができるのだから」とAさんは答えました。

 私は心配になり、「師父が私達にくださった修煉する時間は限られています、お金では買えないのだから、その間に私達は執着をなくすにはどうしたらいいかを考えるべきです」と話しました。

 彼は休暇の予定を変更するつもりはないようなので、私はその場を離れました。

 帰った後、私はとても動揺しました。あまりに「不真面目」な同修なので、今後、口もきかないようにしようと思いました。また、師父が私たちを救うために苦労されたことを思えば思うほど、彼のことが腹立たしくなってきて、物質的な楽しさに執着しすぎて、どうして師父の救済に値するのだろうかと、強く思いました。

 家に戻ってから、同修のBさんから別の用件で呼ばれたとき、私はどうしようもなく憤慨しました。

 「あなたも悪いところがあると思わないでしょうか?」とBさんは静かに問いかけました。

 「私のどこが悪いのですか? 彼を喜ばせるために何か言うべきでしょうか? 動揺してはいけないとわかってはいても、やはり何がいけないのかがわからないのです」

 その時、彼女は、「私たちは、誰に対しても思いやりを持ち、他人を思いやることが大切です」と教えてくれました。そのとき、私はふと、自分の問題に気づいたのです。

 同修の話で思い出したのは、先ほど聞いた「師恩を偲ぶ」で、とてつもなく幸運な弟子たちが師と一緒にいる場面です。講習会が終わると、学習者たちが師父を取り囲んで集合写真を撮るというシェアリング記事を思い出したのです。時には、師父がみんなと写真を撮るのに1時間から2時間以上かかることもありました。ほとんどの修煉者は、どうやって師父と握手するか、どうやって師父のサインをもらうか、どうやって写真の最前列に並ぶか、そればかりを考えていました。それに気づいた修煉者の中には、師父にもっとやってほしいと言い続ける修煉者に対し、非常に憤慨する者もいました。そんな心配とは裏腹に、師父はみんなに温かい笑顔を見せ、すべての希望を叶えてくださいました。

 私は、師父にあれこれと注文をつける人を恨んでいた修煉者たちと同じだったことに気づきました。私は思いやりがなく、寛容でもなかったのです。私はただ執着を持っている人に我慢がならなかったのです。私の心は否定的な考えに支配され、それが黒い物質を生み出し、休暇に行きたいと言っていた修煉者との間に亀裂を生じさせたのです。それは他人を見下すメンタリティーの反映であり、自分のことで精一杯であることを示していました。それは、まさに私が修めるべきものではなかったのでしょうか。

 その反省から、私は同修の執着心を指摘することは間違ってはいないのですが、それを聞いてくれないことに腹を立てるのは間違っている、と気がつきました。基本的に、私は自分を修めるためにここにいるのであって、他人を修めるためにいるのではありません。自分の意見が通らないからといって、憤慨してはいけないのです。私が怒った修煉者は、他の点ではとてもよく修煉していたかもしれないのです。師父はすべての修煉者の面倒を見てくださって、もしかしたら、師父はあの出来事で、私に内に向かって探すようにさせてくださったのかもしれません。

 このことに気づいてから、同じ修煉者である夫との問題も解決しました。以前は、夫が勤勉でないとか、法輪功をやっていないと思うと怒っていたのです。今は感情的にならずに、理性的に物事を処理できるようになりました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/11/3/433198.html)
 
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