異性の同修間の尺度及び「同修」という名目
■ 印刷版
 

 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年1月15日】私はインターネットで調べたところ、常人社会では、異性間の付き合う尺度について、いまだに非常に気にしていることが分かりました。

 今年の初め頃、私はある男性同修と一緒に学法をしていました。当時はどちらも学法のグループがなく、一人で学法する効果があまり良くないと感じ、たまたま利用できる空き家があったため、しばらく一緒に学法をすることにしました。

 その空き家の周辺にはたくさんの家がありました。私たちの出入りが、すぐに住民たちの注目を集めたようで、私をこっそり見ている人や、軽蔑のまなざしを投げかける人もいました。私は男性同修に「昼間でも、私たちが正常な関係ではないとみられるかもしれません。これからは行きません」と言いました。彼は何度も私を説得しようとしましたが、最後に、私は彼が反論できない理由で断りました。そこで、男性同修と一緒に学法することをやめました。

 実は、私も最初から、独身の男女がいつも二人きりで学法することに違和感を感じていましたが、断らなかっただけです。

 同修は、私が執着するから、注目される厄介なことを招いたと言い、その心を捨てて、学法を続けるべきだと主張しました。そのような言い方と考え方は、魔が人心を利用する誘惑に過ぎません。学法自体には問題ありませんが、そのやり方は間違っています。

 人間には人間としての理があり、行いの規準があります。カップル関係以外の異性が近すぎると、間違いなく注目と批判を招きます。誰かが興味を持って噂をするのではなく、普遍的道徳観としては許されないからです。道徳が衰退している現代人でさえ、そのような接し方が正しくないと見ているので、われわれ修煉者はなおさらです。

 人類の行為の規準は、人の心を抑制し、社会の道徳を一定の基準に維持させるためです。私たちはいかなる理由があっても、それを破壊してはいけません。現在の人類は堕落していますが、道徳を完全になくしたわけでも、普遍的規準を放棄したわけでもありません。私たちはこれらのことに注意を払わなければなりません。人が知らなくても、自分にそのような心がなくても、それは明らかに適切ではありません。規準の境界線を越えると、執着心が生じてしまい、最後には深い淵に落ちてしまいます。師父は「人間という次元で、大法弟子は大法に更に圓容するしかなく、大法に如何なる損失をももたらしてはいけません」 [1] と語られました。ですから、私たちはいい加減に行動してはいけません。

 多くの場合、私たちはこの点において、意図的に放埓(ほうらつ:抑制するものがなく、自由気ままであるさま)しているとか、あるいは悪い目的を持っているわけではないかもしれません。例えば、前述の男性同修は、単によく学法をしようと思っていたかもしれませんが、その過程のことを無視した結果、常識に外れ周りの人々に理解されず、軽蔑されるのです。しかし、大法弟子の私たちには師父がおられ、必ずヒントを与えてくださるはずです。問題は、私たちが正しく悟るかどうかにあると思います。ヒントを妨害だと見なすと、自分の執着に沿って間違った方向に進み「心を放下した、突破した」と思う恐れがあります。

 この件から、別の問題に気づきました。それは「同修」の名目で執着を成り行きに任せることです。例を挙げましょう。ある時、私は多くの同修と一緒に郊外に行きました。突然目に何かが入ったため、助けを求めました。ある男性同修がすぐにやって来て、手伝ってくれると言いました。軽々しい振る舞いから色の心が明らかでした。私はすぐに体をかわして拒否しました。すると、「何が怖いのか、みんな同修だから」と笑いながら言う同修もいました。その後、一人の女性同修が来て助けてくれました。

 「みんな同修だから」という話は何度も聞きました。しかし、私たちの言動を測る基準は大法ではありませんか? 「みんな同修だから」といって、互いの心はみな純粋であることを意味しますか? 異性の間も区別しなくていいという意味ですか? この言葉の中には、人心と非合理性がどれほど含まれているのでしょうか。同修たちが一緒にいる時も、様々な人心があり、修めるべきものがあります。私たちは修煉者であり大人でもあります。私たちの無知と無礼を単純なものと見なすことはできません。問題を指摘されたとき、相手が複雑で愚か者だと思い、無辜な顔を見せる人もいますが、大法弟子として、世の気風がどんどん悪化していく中で、自分たちを正さなければなりません。

 以上は修煉における個人的な認識ですが、実に人間としての基本的な道理に過ぎません。同修の中での個別的な現象ではないため、ここで皆さんと交流させていただきます。適当ではないところがあれば、ご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/1/11/436204.html)
 
関連文章