文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年3月12日】師父は 「功は自分の心性によって修めるもので、着実に修煉しなければ、功が伸びるはずはありません。なぜなら心性の基準がそこにあるからです。あなたの功が伸びる時、次元の高い人から見れば、あの執着心、あの物質が消えると、頭上に尺度が現われるのが見えます。尺度は功柱に似たようなもので、尺度の高さが功柱の高さで、それはあなたの修煉して得た功を代表し、あなたの心性の高さも代表しています」[1]と説かれました。
この数年の修煉の中で、私は1回に留まらず尺度を見たことがあります。自分のものが見え、他人のものも見えました。まさに師父が「これは目盛りがあるのです」[2]とおっしゃった通りでした。
他人の尺度が見えた
ある日、病業の中にある同修は、家人や多くのことが不本意であると文句を言いました。私は聞いていて、同修の心性がなぜ常人にも及ばないかと感じました。その時、私は一つのコップが見えました。コップには水が半分あり、そばに定規が立っていて、このコップを測っているようで、この同修の当時の心性の尺度と容量を見せてくれました。
またある日、1人の同修は私の家の前で腹を立てて大声で「あなたは修煉者ですか? あなたはどのように修めているのか? あなたは真・善・忍に従って修めているのか? 嘘つき!」と私を責めました。同修は怒りのあまり、顔が青くなり、目が赤くなり、口が震え、言い出した言葉は連射砲のように私へ向かって「射撃」しました。私がぼんやりしているとき、1本の定規の目盛りが下がっているのが見えました。私は同修を慰め、家に入って、落ち着いて説明するように勧めましたが、同修は立ち去りました。私は同修の頭上にある尺度が本当に一段落ちたのを見ました。
自分の尺度が見えた
修煉の中で、私は自分の尺度も見ました。数年前、私は義理の両親と一緒に住んでいました。夫は長男で、義弟は無職でした。私と夫は給料のほとんどを出して家族を養っていました。ある年の中秋節、一家で鍋料理を食べているとき、夫は弟に仕事をやってみるように勧めましたが、義弟は突然怒って立ち上がり、ガラスを床に投げたので、酒とガラス片が飛び散りました。彼は「あなたはどんな嫁をもらっているのか、彼女は毎日なにもせず、食事ができたら食べ、洋服を持ってきたら、手を通すことしか知らない。私に文句を言うな! 私は奴隷のように生き、毎日あなた達の顔を見て・・」と罵りました。
義弟は罵りを全部私に向けました。家族はみな驚き、呆然としました。夫の叔母の娘は緊張して私を見て、夫は家を出て、義母は泣き、義父は呆然として、娘は口を固く閉じて声を出せませんでした。私は座ったまま、心はとても落ち着いて、この罵りは別人に向けたもので、私とは関係がないというように食事を続けました。食べているとき、頭上から熱いものが全身を貫通しました。私は師父が灌頂してくださったことが分かり、心から師父に感謝しました。私は自分の頭上に尺度が現れ、目盛りが上昇しているのが見えました。義弟に罵られても、修煉者としては理が分かっていますから、表面で人と争わず、何かに遭遇したら、度量のある態度をとります。ですから、今回の事は私のところでなにも起こらなかったようでした。
師父は 次のように説かれました。「彼はあなたをいじめてあなたに徳を与え、あなたの業も消えるのです。あなたは彼と同じように対処せず、心の中はとても平静で、あなたの心性基準が高くなります。頭上に心性の尺度があって、尺度が高ければ高いほど、功は高くなります。あなたは心性も功も高くなり、業も徳に転化し、さらに彼はあなたに徳を与えました。あなたは一挙四得です。それでは彼に感謝すべきではないのですか? 本当に心から彼に感謝すべきです」[3]
しかし、私は心性の把握がよくなかった時もありました。ある日、同僚たちは給料が低いと文句を言っている時、私も皆の話に加わり、よく喋っていたところ、ある同僚は突然真面目に私に「あなたはどうして私達の議論に加わったの? あなたは修煉者で、高い境地にある人で、三界を出て、五行に居ない人なのに、どうして私達と一緒に文句を言うの? あなたは蓮の花のように泥から出て汚れていないはずなのに」と言いました。
同僚の話がまだ終わらないうちに、私は自分が間違ったと分かり、口を閉じ椅子に座って反省しました。他の同僚はみな呆然とし、誰も喋らなくなりました。私は頭を下げ、知らず知らずに1本の定規を持ち、無意識に定規を見ていると、突然、この定規の前に二つの透明な尺度が現れました。一つは高く、一つは低かったのが見えました。私は分かりました。常人と同じように言ったため、心性が落ちました。私が後悔しているとき、私を責めたその同僚は突然笑いながら、指で机を叩き、「私の話はよく効きました。彼女はびっくりして喋らなくなりました。「 五行に居ず 三界を出る」という言葉はとても奥深く、次元が高く、私はどうして話せたでしょうか? どの神仙が私を導いて話させたのでしょうか?」と言いました。私は「私達の師父があなたに話させたのです」と思いました。
私は自分が常人の心に動かされ、常人に同調したことが悔しかったのです。自分の心性を探し、高い給料を望み、低い給料に文句を言ったことは悔しいことでした。私は利益の心を修める方面でまだよくできていないと分かりました。師父は同僚の口を借りて指摘してくださいました。修煉者は高い基準で自分を要求しなければなりません。この件を思い出して、私は恥ずかしいと感じました。
修煉の中で見えたこの数回の尺度は私が法を暗記しているときにも、はっきり現れました。ある日、私は「心性の高さを測るのに、もう一つ尺度というのがあります。尺度は功柱とは同じ空間に存在してはいませんが、同時に存在しています。心性が修煉して上がって来たら、例えば、常人の中で人に罵られても、黙って平然としています。殴られても何も言わず一笑に付するだけで済ませてしまいます。そうなれば、その人の心性はもうかなり高くなったと言えます」[1]を暗唱していたところ、経験したこの数回の尺度の光景が見えました。ビデオのように映り、周囲がきらきらしていて、最後に異なる尺度の形で定まりました。
師父が説かれた全ては他の空間でみな真にあるものです。大法弟子はなにかに出遭うとき、本当に内に向けて探し、心性を高め、真の修煉者となせば、向上することができるのです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪法解』
[3] 李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』