文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年7月30日】最近の修煉における問題について自分の考えを述べてみたいと思います。不適切なところがあれば、同修のご指摘をお願いします。
一部の同修は、大法を修めれば必ず成績が良くなるはず、または仕事において昇進する機会が必ず多くなるはずだと思っています。多くの保護者は多少なり、潜在的にそう思っているのではありませんか? 大法を学んでいるのだから、子供の成績は良くなるはずです。しかし、現実を見てみると、往々にして重要な試験の後、子供の成績は好ましくない場合が多いのです。その時、子供弟子も「法を学んで、煉功もしているのに、なぜ成績が悪いのか? 普段よりも悪いではないか?」と疑問に思うでしょう。
私の理解では、運命は定められています。「修煉すれば、運命が変わるのでは?」と聞く人がいるでしょう。
師父はこうおっしゃっています。「修煉者として、今後の人生の道は変わるはずです。わたしの法身が改めて段取りしてあげなければなりません。どのように段取りをするのでしょうか? これからの人生は、果して後どれぐらい残っているのでしょうか? 本人にも分かりません。ある人は、半年か1年くらいして、数年間治らない病気に罹ることになっているかもしれません。ある人は、脳血栓や他の病気に罹って、まったく動けなくなるかもしれません。では今後の人生においてどうやって修煉するのでしょうか? われわれはそれらのことをすべて取り除き、そういうことが起こらないようにします」[1]
私が思うには、修煉の道を歩めば、修煉の妨げとなる難などは解消されますが、定められている運命の中にない富や仕事における幸運などが得られることはないのです。また、徳という物質の多少によって人間の福が決まりますが、修煉者は徳をもって功へと演化させ、功を伸ばし、次元を高めることを目標としており、徳と引き換えに常人社会の快楽や福報を求めていないはずです。
修煉者として、真面目に勉強し、真面目に仕事に取り組み、修煉者の基準に則り、師父の教えに従ってやるべきことをやればよいと思います。師父はすべてを按排して下さいます。何かに執着する必要はなく、出るべき結果は自然に出てきます。
別の次元から言えば、修煉は超常的です。修煉を通じて常人の名利情を得ようとすることは非常に大きな不敬と執着ではありませんか?
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』