明慧法会|その地域の衆生を救い済度するために全力を尽くす(二)
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文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2022年3月10日】(前文に続く)

 二、妨害を排除し人を救うことを止めない

 ある晩、同修の家に、若い女性同修のCさんがやってきました。Cさんは入って来るなり「資料を配りに行きたいのですが、一緒に行ってくれる人がいません」と言いました。この日の夕方、2人の年配の女性同修がタクシーで隣の農村に行って資料を配り、その後歩いて戻ってくるのをCさんは見たそうです。若い同修として外に出て行かなかった自分が恥ずかしいとCさんは思いました。私は「私があなたに同行します」と言いました。その時はすでにとても遅かったので、法を学んで自分を高めたいと思っていたのですが、一心に人を救いたいという同修の心を見て、協力しなければならないと思いました。

 2017年に一緒に迫害されたDさんと、先日、一緒に2回交流しました。Dさんは現在、大規模に真相資料を配ることの重要性を認識していましたが、ちょうど小さい商売を営んでいたため、疲れてくたくたになっていました。車も買ってお金も投資し、加えて2017年の時の迫害で経済的にかなり追い込まれていたので、なかなか抜け出せませんでした。

 ある日、Dさんが家まで送ってくれた時、Dさんは「昨晩、あなたと他の数人が一緒にいる夢を見て、あなたが先に帰りました。帰ろうとした時、私たちは二つの大きな溝の上を飛び越えました。後である人が私たちに『卒業証書がないと帰れませんが、今はその時間がなく、卒業証書を発行できません』と伝えました。私は『私は家に帰らなければならないので、どうしても手に入れなければなりません』と言い、説得に説得を重ねて、ようやく手に入れることができました。これは師父が私を悟らせてくださっているのです! 師父と一緒に帰るためには、精進しなければなりません」と言いました。Dさんはしばらく商売を止めて、私と一緒に資料を配り現在(訳注:2020年11月)に至っています。

 その後、さらに2人の女性同修が加わり、私たちは4人で地方に行くことになりました。近い町までは電動自転車に乗り、遠い町には隣町の同修の家に電動自転車を置かせてもらい、資料を配るための電動自転車に乗り換えるための場所(訳注:別の同修の家)まで、Dさんが運転して私たちを連れて行ってくれました。配り終わった後、電動自転車を同修の家に戻し、再び車で戻ってきました。このようにして、効率が格段に上がり、遠隔地の町でも気にする必要がなくなりました。

 地方で資料を配り始めてから、様々な妨害があり、何度も尾行されたことがあり、そのためにもっと法を学び、もっと強く正念を発する必要がありました。状態が良くて正念が強い時は、大軍を撃退した将軍のように、自信に満ちた気持ちになることがありました! しかし、恐れの物質がやってくると、何かが心に重くのしかかってくるような気がしました。しかし、プレッシャーをものともせず出て行き、資料を配り始めると、何も感じなくなり、配り終わった後はとてもリラックスできました。全体的に悟ったことは、妨害に遭った時には内に向けて探し、法をもっと多く学び、高密度に正念を発して行くべき場所を清めておくことが最良の保障でした。法を多く学べば学ぶほど、心の状態は良くなり、多く正念を発すれば発するほど、心は安定し、様々な妨害に邪魔されなくなりました。

 ある時、資料を配った帰りにパトカーに追いかけられ、サイレンを鳴らされて停車させられたことがありました。Dさんは主に私のことを心配していたので、最初は止まらず、パトカーが猛追してきました。私は「止まりましょう」と言いました。Dさんは「私が止まったら、あなたはドアを開けて走ってください」と言いました。私は「そんなことしなくても大丈夫ですよ」と言いました。車を止めると、4人の警官が車から降りてきて、運転手の運転免許証や身分証明書の確認、飲酒していないかどうかのチェック、トランクの中の捜索などを始め、その後に私たちを解放しました。

 私たちは内に向けて探し、Dさんは「前回の迫害以来、私はいつもマイナス思考が消えず、いつも最悪の事態を考えてしまいます」と言いました。私は「普段、検問を受けるとストレスを感じることが多いが、今日は日中に高密度に正念を発したせいか、この予想外の出来事に直面しても怖さを感じなかった」と言いました。

 ある日、資料を配って帰ってきた後に、結婚式をしている夢を見ました。狭いリビングぐらいの大きさの大鍋で餃子を焼いたら、餃子がこぼれてしまいました。多くの人が食卓を囲んで食事をしていました。餃子がとても香ばしくて、私も食べていました。ほど近い場所で、2列に並んだ人たちが私たちの食事を見ていました。ある人が私に「彼らはよその地区の人で、彼らも餃子を食べるのを楽しみにしています」と言いました。これは衆生が救われるのを待っているのだと私は悟りました。

 その後の1カ月間、定期的に資料を配っているのは私たち4人だけだと感じていたので、私は少し焦り、残りの資料を配り終えていないのは同修たちのせいだと不満を持ちました。ある日、ふと「恨みを持ちながら人を救うのは純粋でない」と思いました。なぜ私は心の中で焦りを感じているのでしょうか? 成功を急いでいるのでした。自分の容量を広げて、真相を必要とする何百もの村を前にした時と同じ心の状態を持つべきだったと思いました。このように考えていくと、不安や恨みが消え、心が再び穏やかになってきました。あと三つの町を配り終えていなかった時、大きなスーパーの一角が私の夢の中に出てきました。食料品などの商品があふれていて、非常にきれいに整頓されていましたが、まだタイルが貼られていない小さな箇所が3カ所ありました。

 8月中旬には、県内の数百の村のうち、30〜40の村だけを残し、すべてに資料を配布し、県内のすべての地区に資料の配布を担当する担当者がいました。その中で、いくつかの村では、私たちの県との境界にある他の地域の市の同修たちも資料を配っていました。

 三、すごい同修たち

 60代の老夫婦の同修は、自分たちが住んでいる町の20の村すべてに配り、今は他の町へも手伝って配りに行っています。今年(訳注:2020年)は深刻な干ばつに見舞われ、多くの山地で農作物の収穫がまったくありませんでした。ある日、その老夫婦の同修に資料を届けに行った時、私は「今年は農作物は干ばつでだめではないですか?」と尋ねました。老夫婦の同修は「私の地域では先ほど大雨が降りました。私たちのところから数キロ離れてしまうと雨は降っていません」と言いました。実際、その人の地域を除いて、県全体でほとんど雨が降っていませんでした。老夫婦の同修は「これは師父が私を励ましてくださっているのです!」と言いました。

 資料拠点の同修は最も大変で、今回は、街と地方の両方すべてで資料が必要で、数カ月に渡って資料が途切れることはなく、夜の8時や9時になって家に帰って料理を作らず、帰ってからも学法や家事をして、最も遅い時は夜の1時や2時にならないと休めませんでした。また、ここで一言言っておきたいのですが、資料拠点の同修は10年以上も資料拠点で黙々と仕事をしていますが、その10年以上の間、借りていた家は冬は本当に寒く、夏は暑いという劣悪な環境でした。数年前のある夏、私は資料拠点で同修が仕事をしていたことを思い出したのですが、防音のために窓を開けていないのと、つらくなるほどの暑さのせいで、仕事はもちろん、この部屋にいること自体が苦しみだと思いました。同修は私に「毎日朝来てから夜家に帰っても汗が途切れません」と言いました。さらに中共の狂ったような迫害の数年間、いつ緊急の引っ越しが必要になるかわかりませんでした。

 協調を担当する県内の同修は、長年にわたって大真面目に仕事に取り組んでくれていますが、この数年は資料の配布、エリアの分割、なかなか会うことのできない同修との交流など、さらに忙しくなっていました。ほとんどの場合食事は一口だけで、本当に忙しい時はインスタントラーメンを作って食べていました。

 四、結び

 20年以上にわたる法を正す時期の修煉は、困難で紆余曲折の日々が多く、生死の選択であり、師父が法を正すことをお手伝いし、衆生を救い済度する道を歩んできたことを嬉しく思います。この道のり、そして私の生命のすべてにおいて、私は師父の無量の慈悲とご加護に導かれてきました。言葉では言い表せないほど、心から感謝の気持ちでいっぱいです!

 最後に「長い道のりは既に尽き、深い霧は徐々に散る。正念は神威を顕し、天上に戻ることは待ち望みではない」[3]という師父の説法の一節を紹介し同修の皆さんと励まし合いたいと思います。

 (完)

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『理性』
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟五』「人が世に来た秘密」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「師父から新年の挨拶」
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」

 (明慧ネット第17回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/11/13/414812.html)
 
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