党文化の思考方式から抜け出す
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 【明慧日本2022年12月29日】修煉し始めた頃、私は『党文化の解体』という本を読みました。しかし、法輪功を学ぶことと『党文化の解体』の関係性がよく分かりませんでした。最初は、党の宣伝文句を使わなければ党文化を避けていることになると思っていました。ところが最近、『党文化の解体』や『党文化について語る』の放送を聞いて初めて、遍在する党文化の思考方式と言論体系が修煉者に及ぼす害を本当に認識できました。

 私たちは自分の主元神を修めているわけですから、自分が何を考え、何をしているのかをはっきり認識しなければなりません。修煉者が党文化とは何かを分別できなければ、党文化の思考方式に陥りやすく、正念を持って物事を認識し続けることが難しくなります。特に70年代以降に生まれた人たちは、党文化にどっぷり浸かって育ち、見聞きしてきたすべてが党文化でした。遍在する党文化は、人々の生活の中に「物質的な場」を作り出し、この「物質的な場」は、修煉者と常人の思考に常に影響し、少しでも油断すると党文化の狭い考えに陥ってしまうのです。党文化的考え方とその言語体系をしっかり認識し、党文化とその「物質場」を解体してこそ、それらに振り回されることなく正しく大法を認識し、法を理性的に考え、法に照らして物事を見ることができるのです。それでは、党文化の思考方式に陥って私がやってしまったことについて話します。

 知らず知らず他人を真似している

 暁雅さんという女性同修がいます。彼女は一人で二人分、三人分の仕事をこなせるほど効率が高く、法もかなり暗記しています。彼女の有能さを目の当たりにした私は、無意識のうちにそれに追随しました。その結果、スピードを追求して質を重視せず、表面的なことだけにこだわり、ただ早く仕事を終えてタスクを達成した感覚に浸っていました。表面的には自分もできるように見えますが、心の底には負けたくない、見せびらかしたい、嫉妬といった心がありました。当時は自分がこういった悪い心を持っていることに気づかず、人を救うことに取りかかっていると考えていました。しかしだんだんと、この心は学法や日常生活にまで影響し、学法もスピードを追及し、あるいはたくさん法を暗記したので今日は修煉したと思うようになりました。何事にもせっかちで、着実に仕事ができませんでした。結局、何をやっても落ち着かず、とにかく早く終わらせて学法したいと思うようになりました。学法している時も集中せず、口では法を読んでいるのに頭は別のことを考えていて、法を読み終わった後に自分が何を読んでいたのかもわからず、そのあげくに視力と聴力が下がってしまったのです。

 今思えば、党文化にある盲目的な崇拝、誤魔化し、功を焦り近視眼的な利を追求するという考え方に操つられたのだと思います。暁雅さんの有能さは、彼女が法をよく学び、心性も能力も一定の高さに達していたからです。しかし、私は彼女と同じ状態になるにはどうしたらいいかとばかり考え、表面だけを真似していました。自分の能力が足りないので、もっと練習しなければならないとか、自分の考えが曖昧で、何かをする前にはもっと考えをはっきりさせることができていませんでした。法理がしっかりしていないので、スピードを求めずにまじめに法を学ばなければいけませんでしたが、その時は分かりませんでした。

 問題が起きた時の言い訳や嘘

 ある朝、私のアラームが家族を起こしてしまいました。私のアラームかと家族に聞かれた時、私はすぐに「時間を間違えました」と噓をつきました。言った直後は後悔し、どうしてそんな思考方式なのか、自分でも驚きました。どこから出てきた考えなのかもわからず、自分らしくもなく、でも口から出てきてしまいました。そして、それは自分の空間にある党文化の物質の影響だと理解しました。当時、自分を守りたいという私心があり、それがたまたま他の空間の噓をつくという物質と合致していたので、それに操られたのだと思います。今、私はこのようなものを認識し、排斥し、反対し、きれいにしています。私心と嘘を自分の空間から排除し、自分の主意識で自分の人生をコントロールするようにしています。

 師と法を信じず

 表面的に他人から学ぶことによって、法を学んでも法を得られず、いくつかの病業の虚像が現れました。視力と聴力の低下、鼻水という状態が3年近く続きました。その過程では良い時も悪い時もあり、一度も途切れたことがありません。めまい、足の重さ、腰痛、頻尿、便秘などの症状もありました。私は、こんなに長く大法を修煉しているのに、どうして治らないだろうと疑い始めました。修煉者が、どうしてそんな問題を抱えているのでしょうか。3つのことをやっているつもりでしたが、どうしてまだこんな状態が現れたのでしょうか。しかし、自分の煉功の動きが基準に達しているか、心が静まっているか、座禅で足が痛いときに続けるのか、組んだ足をくずすのか、法を学ぶ時に一心不乱になれただろうかなどと自問したことがありませんでした。これらのことに認識してから、座禅のときは足を布で固定し、いくら痛くても1時間キープしました。1週間後、足の重たさや腰痛がすべてなくなりました。法を学ぶ時は、スピードや結果を求めず、できる限りゆっくりと、一文字ずつしっかりと、読める範囲まで読むようにしました。そして、ついに法に溶け込む状態になれました。周囲のすべてを感じなくなり、まるで体や脳の細胞がすべて法に溶かされ、五臓六腑まで軽くなり、法理も顕現しました。視力や聴力も徐々に回復し、頭もリラックスしました。

 師や法を信じない思考方式は、党文化の闘争意識に洗脳され、「すべてを疑う」という考え方で物事を判断してきた結果です。法において法を認識し、「病業」の虚像はまさに高い次元へのステップであり、肉体を浄化する過程であり、宇宙の真・善・忍の特性と同化する良いことでもあるのです。

 恐怖心と疑心

 私には長い間、強い疑心と恐怖心がありました。誰かがドアをノックすると、警察かなと疑ってしまいます。インターネットに接続できなくなると、邪悪にネットを切られたのかと心配してしまいます。連絡先を聞いてくる人がいると、「この人は何がしたいんだろう」と思ってしまいます。友人から「あなたはどうしていつも誰かに傷つけられることを恐れているのか」「被害妄想でもあるのか」と聞かれ、私は初めて自分にこれ程の思い疑心と恐怖心があると気づきました。

 『党文化の解体』の放送を聞いて、子供の頃から植え付けられてきた党文化には、「誰もが信用できない」という考え方がありました。特に法輪功への迫害でその意識が強まったのです。他人に対する警戒心が非常に強く、人を見ると、相手に悪意があるのでないかと自ら警戒してしまうのです。いつも他人に警戒心を抱いているのは、普通の人間の状態や考え方ではなく、自分で自分を束縛しているのです。

 この異常な考え方は、嫉妬心や怨恨心にまで発展してしまいます。たとえば他人の長所を見ず欠点ばかりに注目すること、自分より優れた人を見ると心のバランスが崩れ、視野が狭くなること、直属の上司以外には指図されたくないこと、人がほめられたりするとすぐに心の中で自分と比較することなどです。時間が経つにつれて、修煉すればするほど、心が疲弊していくのを感じるのはなぜでしょうか? 心を修めれば修めるほど、心は狭くふさがった感じになりました。元々の気前の良さはどこへ行ったのでしょう。この悪い心を無くさなければと思っても、きれいに捨てられず、繰り返していました。今はようやく思考の根源から取り除くということが分かりました。これらの悪いものは非常にずる賢くて、出てきたときにきれいにしようとすれば、引っ込んでしまうことがあるので、動かさないようにしてやると解体することができるのです。

 自分の基準で他人を計る

 主人は体の健康を大事にせず、ちょっとした不調があると引きずり、医者にもかからず、健康維持の方法がわからないのです。私は彼のことを「(親からもらった体を大切にしないのは)親不孝だ」と言いました。彼は「なぜそんなに大げさに言うんだ」と言い返しました。私はすぐに自分が間違っていることに気づきました。彼を非難し、彼も私と同じようにしなければならないと要求し、全く彼の気持ちを考えず、彼が内心で何を考えているのかも理解せず、問答無用で責めてしまいました。実はこれも党文化が働いているのです。

 古代の人々は、他人の過ちにどのように対処したのでしょうか。こんな故事があります。「中国・北魏の時代、房愛東という男がいた。彼の妻は崔氏といい、清河地方の人だった。崔氏は二人の息子が幼い時から『九経(儒教における九種類の経典のこと)』を教え、礼儀正しく、思いやりのある子になるように育てた。やがて崔氏の長男である房景伯は、清河の太守となった。ある日、貝丘という所の一人の婦人が息子の親不孝を訴えに衙門に来た。房景伯は婦人の不孝息子の罪を問おうとしたが、この事を知った崔氏は『婦人を連れて来てしばらく私と一緒に暮らし、婦人の息子の方は房景伯のそばに付き添わせましょう』と息子に話した。その結果、房景伯が崔氏に礼儀正しく挨拶するたび、不孝息子は少し離れた所でそれを見ていることになった。親不孝の息子は、だんだん親に対する無礼な態度を恥ずかしく思うようになった。10日経つと親不孝の息子は、自分の過ちを改めたいので家に帰ると申し出た。しかし崔氏は『彼は面目がないと思うだけで、まだ心から反省してない。もうちょっと様子を見てみましょう』と言った。20日経つと婦人の息子は土下座し、悔しそうな顔をしながら、心から自分を改めたい、母親を連れて帰りたいと願い出た。婦人も泣きながら、家に帰りたいと言った。そこで房景伯は、母子を帰らせた。その後、不孝息子は自分の行いを悔い改め、親孝行で有名になったという」

 古代の人は他人の過ちに対しては、導いて認識させ、心から改めてよく行うようにさせました。党文化に毒害された私たちは相手を非難し、自分に従うようにしています。このやり方は思い通りにならないばかりか、かえって反感を買ってしまいます。大法の真相を伝えるときも、同様の問題が現れてしまいます。修煉者は党文化をしっかりと認識し、その束縛から抜け出して初めて、真に法に照らして物事を考え、修めることができます。そうすることで3つのこともしっかりできるようになると思います。以上、個人の体験を交流しました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/10/6/450469.html)
 
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