【5.13応募原稿】暗闇から光への道(一)
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文/中国の大法弟子・張安康

 【明慧日本2023年6月6日】私は70歳です。1994年3月、幸運にも天津市の八一講堂で行われた師父の講習会に参加しました。その日以来、李洪志師父は私の運命を変え、苦境に陥っていた私を死の淵から救ってくださいました。第24回世界法輪大法デーに際して、私は明慧ネットのエッセイ募集に応募し、暗闇から光への人生の経験を皆さんにお伝えしたいと思います。

 苦境に陥る

 夫は39歳の時、胸痛のため病院で救急措置を受けている最中に突然心停止しました。心停止してから26分後、医者の懸命の蘇生によって、心拍は再開しましたが、心停止時間が長かったため、脳への酸素の供給不足で、大脳萎縮と脳細胞壊死を起こしました。そのため、夫は誰のこともわからなくなり、すべての記憶が消え、植物人間になってしまったのです。その後の介護によって、夫は徐々に感覚が戻り、歩けるようになりましたが、記憶は戻リませんでした。

 当時30代の私は、気が強く、負けず嫌いな性格でした。このような夫に、何もかも一から教えなければならないし、7歳の娘も育てなければなりません。これから先のことを考えると、どんないばらの道になるか想像がつきました。毎日、精神遅滞(知的障害)の夫と幼い娘を目の前にして、「このような不本意な生活はしたくない。この生活がいつ終わるのか」などと考え、苦痛の中に陥りました。夜も眠れず、どうしようかと徹夜で考え、やがて体が崩れてしまいました。時々恍惚とした状態になり、「もう生きたくない、どうやって死のうか」とばかり考えていました。

 それから1年余り経った12月、ある日の午前10時頃、私は家を出ました。私の異変に気づいた娘が私を追いかけ、交差点で私の太ももにすがりついて、「ママ、行かないで」と泣きながら叫びました。幼い娘を見て、「この子は将来、知的障害の父親と、どうやって生きていけるだろうか」と思いました。精神的な苦痛に耐え切れず、私はうつ病になりました。笑顔がなくなり、嬉しいと思うことが一つもなく、ただ日々、苦境に浸かっているようでした。とにかく「苦」しか感じなかったのです!

 光の道を見つける

 死線をさまよっていた頃、私は重度の貧血、深刻な不眠症を患い、いつ倒れてもおかしくない状態でした。そんな私の状態を知ったある友人が、『法輪功』という本を持ってきてくれました。読み終わって本を返すとき、友人が「法輪功の講習会があるから、行ってみたら」と話し、チケットをくれました。

 それは1994年3月、李洪志師父が天津市の八一講堂で法輪功の講習会を開催された時のことでした。講堂に入り、席に座った途端、腰から下へ涼しい風が通って行くのを感じました。それは師父が私の体を浄化してくださっていたのでした。それから、夜も眠れるようになり、元気も出てきて、「もう生きたくない」という思いはどこかに行ってしまいました。

 その日から、私の運命は法輪大法によって変えられました。

 その後、『轉法輪』が出版され、私は毎日、二講を勉強し、心の中にあった疑問がすべて解決され、気持ちが楽になりました。4カ月後、健康診断を受けましたが、前にあった卵大の子宮筋腫がなくなり、出血もなくなったことがわかりました。

 師父は、まず善良な人間になることから始めて、あらゆる面で他人のことを優先に考え、利己心を無くし、高徳な人になるようにと教えてくださいました。法輪大法は私の心を開き、私は再び笑顔を取り戻し、日々幸せな気持ちでいられました。

 師父は私を死の淵から引き戻し、「返本帰真」という明るい道を歩ませて下さいました。私の人生は前半生の「苦境」から後半生の「楽境」へと変わりました。そのおかげで、夫はその後8年生き、安らかに息を引き取りました。

 奇跡が起きた

 (一)

 1994年3月、私は毎晩7時から2時間行われた師父の講習会に参加しました。その3日目に、師父は「われわれのやっているこのことには、間違いが許されません。本当に正道によって修煉すれば、誰もあなたを勝手に傷つけたりすることはできません。それにわたしの法身に守られているので、何の危険も起こらないのです」[1]と説かれました。

 その日の講習が終わって、私は自転車で自宅へ向かいながら、先ほど師父が説かれたことを思い出して、とても良い気分になっていました。「師父に守られて、幸せだ」と思った時、 突然、背中の左側が何かにぶつけられた気がして、自転車のバランスが崩れ、自転車が斜めに歩道に向かいました。歩道の1メートルほど先には花の池があり、池に落ちそうになりましたが、突然、誰かが自転車を真っ直ぐに直してくれ、自転車は歩道を前方に真っ直ぐいきました。私は自転車に乗ったまま前進しました。

 その時、私が頭を上げ、前方を見ると、1台のバイクが目の前から疾走して行きました。しかし、突然、そのバイクは向きを変えて私の方にやってきて、私の目の前で止まりました。バイクに乗っていた若い男性が、「ごめん、当たったよね?  ぶつけるつもりはなかったんです。病院へ行きましょう!」といいました。私は笑顔で、「お兄さん、私は大丈夫です。スピードを出しすぎないように気を付けてね!」と言いました。「師父が私を守ってくださったのだ」と思いながら、とても嬉しい気持ちで自転車に乗って家へ走り続けました。

 (二)

 2003年、弟が転倒して、折れた肋骨が肺に突き刺さって穴が開き、大量に出血し、ショック状態に陥りました。呼吸困難も伴い、病院からは危篤通知が出されました。当時、弟はまだ47歳だったこともあり、家族はどうしたらいいのか途方に暮れました。私はその時、師父に弟を助けて下さるようにとお願いしました。その後、弟の出血は止まり、徐々に快方へ向かい、開胸手術もしませんでした。

 弟が入院している間、私は一晩看病しました。翌朝、自転車に乗って帰宅する途中、トンネルの下り坂を走っていると、突然、後ろから何かがぶつかった気がして、体が自転車から投げ出されました。体が地面に着きそうになった時、「大丈夫だ」と思いました。まるで地面にスポンジのクッションが置かれているようで、私はそのクッションに下向きになって落ちました。

 私はすぐに立ち上がりましたが、全身のどこも負傷しておらず、服に少し汚れがついただけでした。振り返ると、私の自転車は2メートルほど離れたところにあり、数人の通行人たちが自転車を立て直してくれましたが、自転車の前輪が巻き付いている状態になっていました。

 よく見ると、そこにバイクの下敷きになっている青年がいました。通行人たちが慌てて青年を起こしました。青年のジーンズは破れ、足から出血していました。青年は怖くて泣きそうな声で私に謝ってきました。私は可哀そうな姿の青年を見て、「あなたはわざとぶつけた訳ではないので、怖がらないで、私は大丈夫です。賠償もいりませんよ」と慰めました。

 しかし、周りにいる人たちは、「お姉さん、馬鹿じゃないの? 今は大丈夫と感じているかもしれないが、内臓が傷ついていたら、どうするの? 家に帰ってから大変なことになるかもしれないし」と言いました。青年に「持っているお金をお姉さんにあげるんだよ」と言う人もいれば、「ポケベルの番号を教えないと」と言う人もいました。私は、「私は何もいりません。この人を帰らせてあげてください。早く病院に行って足を診てもらわないといけません」と言いました。

 その青年は、私から「行ってください」と聞くと、さっさとバイクを押して去っていきました。自転車は壊れて、もう乗れないので、私はタクシーで帰りました。あんなに激しく転んだのに、私の体はどこも傷を負わずに済みました。「師父、救ってくださり、ありがとうございます」

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/5/16/460163.html)
 
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