文/北京の大法弟子
【明慧日本2023年8月7日】ある日、私がおばさんと呼んでいる同修と交流しました。静功の話になった時、いま自分は40分も座禅ができるようになったことを話し、とてもよくできていると思い満足していました。しかし、思いがけないことに、その同修は少しも認めてくれようとはせず、「まだ1時間の座禅ができないの? もう少し我慢できない?」と、私に言いました。私はぎょっとして、何も言わなかったのですが、内心不愉快でした。心の中で、私は数分の結跏趺坐から始めて、少しずつ時間を延ばすことができ、もう40分までできるようになった。これは成長ではないか、これこそ精進ではないか、と思いました。幸いなことに、私は短気な人間ではなかったので、その場で反論はしませんでしたが、少し納得がいきませんでした。
夜学法が終わってから、心を静めてしばらく考えてみると、その同修の言ったことが正しいことに気づきました。40分までできたのに、なぜもっと頑張って第五式の功法を完全にできるようにしないのかと思うようになりました。同修は私より10歳以上年上です。背が高くて、足が長くて硬いのですが、そんな彼女でも結跏趺坐で煉功を終えることができるのに、なぜ私にはできないのでしょうか? それは私が苦をなめることを恐れて、自分を放任しているからではないでしょうか? どうしてこれが精進と言えるでしょうか? それなのにまだ自分はよくできていると感じていました。今日から私も静功を1時間やると決心しました。
何事も最初は難しいものです。 その夜、結跏趺坐をして40分が経ったとき、足が痛みしびれてきて、心が乱れ始めました。時間が少し経っては時計を見てしまい、毎回1分しか経ってなかったのです。続けて座禅を続けると痛みで脚に痙攣が起こりました。時計を見ると、ちょうど45分が過ぎていました。私は足を崩しました。初日は失敗で終わりました。翌日も結跏趺坐をして40分になった頃から心が乱れ始め、我慢できず再び足を崩してしまいました。やはり失敗でした。
3日目は、とても悔しくて期待に応えられない自分が嫌になりました。今度こそ絶対に足を崩さない! 足を崩さなかったらどうなりますか? 脚が骨折でもするのか見てみたいと思いました。そして40分が経過した頃、また足が痛くなり始めましたが、今度は時計を見るのをやめ、足の痛みなど考えずに心の中で静かに数を数え、歯を食いしばって耐え続けました。その後、足が痛くて少し震えましたが、気にせず数え続けました。時間が一秒ずつ進んでいきました。どれくらい時間がすぎたかわかりませんが、足が自分のものではないかのように感じました。痛みのため、身体からは汗がでてきて、このようにして私は粘り強く耐え、静功の音楽が終わるまで耐え続けました。ゆっくりと足を崩した瞬間、今までにない軽やかさと喜びを感じました。師父のご加護に感謝しました! 私はやっと我慢できました! ついに自分に打ち勝ち、この関を乗り越えることができました。それ以来、毎回1時間の静功をしています。
同時に、心から同修に感謝しました。その同修が指摘してくれ、促してくれなかったら、私はずっと40分に留まっていたでしょう。同修との間では遠慮すべきではなく、お互いにアドバイスし、促すべきで、これこそあるべき正しい状態で、そして一緒に精進できるのです。これこそが着実に修煉することです。みんなが和気藹々で、そこに坐っているだけなら、それは常人の生活に過ぎず、どうやって向上するでしょうか?
長年にわたり党文化の影響を受けてきたため、私には悪い習慣や考え方がたくさん身に付いています。自分は他人と争ったりしない、優しくて平常心を持っている人間だと常に思っていました。自分は気が強くはなく、他人にどんなことを言われても受け入れられると思っていました。この出来事を通して、人に言われたくない心、苦をなめたくない心、近道を探す心など、隠れていた多くの心を見つけ出しました。深く掘り下げていくと、自分にはこれほどの良くない心があって、それらを取り除かなければなりませんでした! 修煉は厳粛なことであり、着実に修煉してこそ、すべての常人の心と執着を取り除くことができます。
この一つの出来事について、現在の次元での自分の体験を語り、師父に報告し、同修たちと交流したいと思います。