『師父の家族に正しく接する』を学んだわずかな感想
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年10月4日】私は中国の大法弟子です。ですから、師父や師父の家族にお会いするができません。この経文『師父の家族に正しく接する』は、私自身とどれほど関係があるのでしょうか? このような考えが一瞬だけ頭をよぎりましたが、すぐに排除しました。師父が公に発表された経文は、もちろん、大法弟子は世界中のどこにいても重要な関係があるのです! これは単なる理屈で語られているだけではなく、経文を学ぶ過程で、この重要な関係を実感することができます。

 師父は『なぜ衆生を救い済度するのか』という経文の中で述べられています。「歴史の長い歳月が経過し、生命が千万年の間、転生しながら待ち続けているうち、徐々に世の人の生命の真体(各民族を含む)の多くは創世主と様々な親縁関係を持つようになり、そのため、創世主は世の人への愛情をより一層、深められたのです。末後に至ると、救い済度がより良い結果を得られるようにするため、創世主とこの種の繋がりを持っていない生命はこの時期に人間になることができません」。多くの一般の世人も、師父と親縁関係にあります。

 私の悟りでは、今日の大法弟子たちは、師父の身近にいる人も、師父に会ったことのない人も、長い歴史の中で師父と共に結んだ親縁があり、師父との師弟関係には距離や親疏(しんそ:関係が親しいか、うといかということ)の区別はありません。師父に頻繁に会うことができる同修は、自己満足に陥る必要はありません。師父に会ったことのない同修も、何らかの考えを持つ必要はありません。それぞれの修煉の道は師父によって按排されており、いかなる常人の心、人間の情も修煉の障害になります。

 師父や師父の家族へのへつらいによって、修煉の近道を歩くことができ、何らかの便宜を得ることができるのでしょうか? このような人心は、常人や他の宗教の師弟関係においても、非常に不適切なことです。また、他の同修との接し方については、問題がある場合、できる限り助け合うことは当然ですが、あまりにも「仲良く」または「不仲」と考え過ぎないことも大切です。これも修煉の障害となり得ます。常人には「君子の交わりは淡きこと水の如し(立派な人物の交際は水のように淡泊だが、その友情はいつまでも変わらない)」という言葉があり、余計な人間の情や世間の事情を持ち込まないよう心がけることが重要です。

 最近の経文で師父は何度も弟子たちを注意喚起し、修煉において「人心、人間の念、人間の情をもって物事を量っています」(『険悪を遠ざけよう』)と、おっしゃっています。法を正すことが終了に近づいている今、私たちはますます冷静で理性的になるべきで、師父の慈悲と辛苦なる済度を無駄にしないよう心がけるべきです。

 以上は私の次元での理解であり、言っていることが必ずしも大法の要求に合致しているとは限りません。同修と分かち合うためにも慈悲なるご指摘を宜しくお願い致します。

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/25/465677.html)
 
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