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文/米国の大法弟子

 【明慧日本2025年3月16日】2024年6月5日、師父は新しい経文『法難』を発表されました。経文の中に「中国で1999年に起きた法難は今日まで続き、アメリカや全世界においても終了していません」と書いています。

 私の理解では、これらの法難は善と悪の戦いであり、つまり法を正すことと宇宙の旧勢力との戦いであり、人類にとって、創世主による救済か、魔による滅亡かを決めるものです。師父は、私たちがどこにいても、これらの法難は「終了していません」と明確に説いてくださいました。だいぶ時間が経ちましたが、私たちはどれほど目覚め、どれほど努力したでしょうか?

 人類文明のこのサイクルの中で、2回の世界大戦が起こりました。それぞれの戦争の始まりから終わりまで、人々の考え方や生活様式は平時とは大きく変わりました。前線では、将軍や兵士が任務を遂行し、生死の試練を乗り越え、後方では、人々も重圧と精神的トラウマを感じていました。戦闘が続く限り、緊張とトラウマは終わりませんでした。これらの戦争を通じて、人類の業力は大規模に解消され、世界は神の按排に従って再編成されました。

 法を正す時期の大法弟子として、私たちは創世主とともにこの世に生まれ、さまざまな宇宙の衆生を救うという使命を果たしてきました。この善と悪の戦いの中で、私たちは業を滅し、様々な困難に耐え、創世主に立てた聖なる誓いを実践してきました。この25年間の一日一日をどのように過ごしたかは、私たちが人間界で輪廻してきた2億年の記録の最後の章に記されます。この章が終わると、記録が完成し、それは大審判の時であり、創世主のもとに戻り、自分の誓約はどれだけ実現されたことに基づいて審判を受ける時です。

 この善と悪の戦いの中で、私たちがすべきことをしなかったとき、師父は私たちがそれを成し遂げられるよう助けてくださいました。私たちが悟るべきことを長い間悟っていないとき、師父は次々と経文を発表して私たちに思い出させ、ついには言い尽くせなくなりました。この過程で、師父は衆生と大法弟子の業を消滅されましたが、私たちは師父に、もっと時間を与えて私たちの欠点を補ってほしいと求め続けました。多くの人は、迫害はまだ終わっていない、法がこの世を正す時代がまだ来ないと不平を言っています。これは本質的に常人の考え方です。師父ははっきりとおっしゃいましたが、私たちは自分のやり方でやり続けました。

 この世での名誉、利益、情、権利、金銭はとても魅力的に見えるかもしれませんが、法を正すことが終わった後、師父の前での私たちの功徳と過ちを考えれば、それらは本当に重要なのでしょうか? 私たちが修煉者になる前に、業力によって歴史上経験した困難な道のりはどうでしょうか? この長い戦いの間、私たちは師父が私たちのためにどれほどの犠牲を払ったか考えたことがありますか?

 大法を修煉するために来た多くの若い修煉者は成長しましたが、もう修煉していません。親である私たちは、修煉の状態によって彼らに悪い影響を与えたのではないでしょうか? 大法を実証するために、この世に降りてきた私たちを信頼し、親として選んでくれた高次元の生命を失望させてはなりません。少なくとも、師父の言葉に従って、もっと良くなるよう努めるべきです。

 「内を修めて外を安定させる」(『精進要旨』「内を修めて外を安定させる」)

 多くの修煉者は、受け継いだ技能と能力の代わりに、人々を救うために応用できる技能を持っています。もし私たちが人々を救うためにたゆまぬ努力をせず、日常生活と人間の欲望に執着しているのであれば、目を覚まし、師の前で心から悔い改め、これからは一生懸命に努力すべきです。師はこうおっしゃいました。

 「また、一人の人間が修煉しようと思うことは決して容易なことではありません。お話ししたように、それはきわめて厳粛なことであって、常人の域を超えており、常人のいかなることよりも難しいのです。それならばそれは超常的なことではありませんか? だからこそ常人のあらゆる事よりも、あなたへの要求が厳しいのです。…」(『轉法輪』「第三講」)

 困難に直面したとき、私たちは後退しますか、それとも前進しますか?

 私たちは師父に選ばれた生命ですが、毎日善と悪の戦いの真っただ中にいるという自覚がありますか? 自分を戦場の将軍や兵士と見ているでしょうか、それとも後方の民間人と見ているでしょうか? 人類社会におけるすべての衝突は、私たちに選択を強いる心性の試練であり、その選択に対して責任を問われます。

  今、私たちは一部のことを理解できず、一部の問題を許容できず、特定の問題を解決できないかもしれませんが、修煉によって向上し、人々を救うことこそが私たち大法弟子がここにいる理由です。人間の観念や感情で物事を解釈したり、憶測したりしてはなりません。そうしないと、後悔しても手遅れになります。

 もう一年のクリスマスがやって来ます。イエスは人々を救うために、生涯さまざまな困難を経験し、十字架にかけられて初めて救った人々の業を解くことができました。私たちは今、より高い次元から人々を救うためにここにいます。この25年間、私たちはどれだけ真・善・忍の原則に沿ってきたでしょうか? 私たちはどれだけ努力してきたでしょうか? 私たちは人々を天国に送り返すハシゴを築くのに十分でしょうか? 私は自分自身にこう問いかけています。また、私は師父のもとについてこの世に降りてきた同修にも問いかけています。

 師父はこう説かれました。

「時空を超越して、法を正すことを急ぐ 
 巨大な難にも、志は移らん
 邪悪が狂っても、途に迷わず 
 悪を除くは、只塵を拂うとす 
 弟子、大法の路を正しく歩み 
 光、天地を照らし、悪 尽(ことごと)く除かれる
 法徒、精進して、寒中の梅
 万古の艱難はただ今回の為だけである」(『洪吟三』「ただ今回の為だけ」)

 この法を正す期間に、私たちがもっと頑張り、あまり後悔を残さないよう願っています。

 【修煉者同士の理性的な交流は、一般的に、その修煉者がその時点で修煉を通して得た認識に基づいたものであり、善意を持って交流し、互いに向上することを目指すものです。】

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/12/23/486575.html
 
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