文/海外の大法弟子
【明慧日本2023年12月1日】近年の神韻の歌もそうですが、「洪吟」の歌詞の中で、師父はほぼすべての詩歌の中で「無神論」、「進化論」、「現代の概念と行動」について言及されました。(『洪吟五』「未来は自分で掴み取る」)何度も学んだことですが、無神論は一般の人々、そして修煉者の間にさえまだ根強く残っています。
大法弟子として、そういう問題はないと思うかもしれませんが、よく修めた側はすでに隔離されており、その側は神ですが、人間のよく修めていない側は依然として、人間の状態にあるということを忘れないでください。人間である以上、さまざまな執着と業力があり、その中でも現代人、特に中国本土の人々や若者は科学の強力な攻勢を受け、科学の奴隷に陥っています。事実上、彼らは皆無神論を信じています。
現実には、傲慢さや遠慮の無さなど様々な現れがあります。その中で最も顕著なのは師父に対する畏敬の念の欠如、つまり人々が神に対して持つべき畏敬の念を失ったことです。もちろんこれは1人のせいではなく、全員のせいであり、環境全体のせいです。人は常に人心で問題を考え、神の言葉や奇跡などを置き去りにしています。目に見えるもの、触れることができるものは本物ですが、師父の法身、大法の威力、修煉者の心性など、多くの人は肉眼で見ることができない、故に信じないかもしれません。その結果、人々は自分が何をするにしても、それは自分自身がやったことであり、自分は賢くて能力があると考えるようになります。
我々は修煉を通して、人生は按排されたものと、大法弟子の能力は師父から与えられ、技術の向上は心性の向上後に神から授かるものであることを分っています。
私が深く感銘を受けたことの一つは、バッハが完成させたすべての曲に「神に栄光あれ」と書いたことです。ときには、大法弟子の神に対する畏敬の念は、数百年前の一般の宗教家に比べて、高くないと感じることがあります。皆は自分の能力や業績も含めて、自分が持っているものはすべて師父から与えられたものだと、本当に心の底から認識していますか? それとも、少し進歩しただけで満足し、自分は他人より優れていると考え、師父のことを思い出せずにいるのでしょうか?
携帯電話、パソコン、インターネットなど、現代のテクノロジーがもたらす利便性の高さに対して、人々の知恵が結集し、情報が無限に流通する中で、人間は神のような生き方をしていると思いますか? 人々は自分の利己的な欲望を満たすために、人間の道徳的特質や堕落した概念さえも利用し、極めて高度な技術を習得しており、そのことが人々をより独善的にさせ、神への敬意と神の力への畏れを失わせています。これこそが最も恐ろしいことです。修煉者は、人間の技術がいかに進歩しても、人間は人間の次元を脱したわけではなく、神の按排から脱したわけでもないことを、はっきりさせるべきです。
師父は「人類は、大法のこの世での現われに対して、然るべき敬虔と尊重を体現することができれば、人々、民族、或いは国家に幸福や栄光をもたらすことでしょう」と説かれました。(『轉法輪』「論語」)
私たち大法弟子は、世界で大法を最初に現された師父に、どのように敬虔と敬意を表すべきでしょう? これは、長年無神論の教育を受けてきた知識人や、西洋の現代思想に深く影響を受けてきた人々にとって、実に深刻かつ重要な問題であります。逆に、テクノロジーを持たず、天地に頼って生きる人は、自然と天と神に対して、ある程度の畏敬の念を持っています。
無神論を打ち破り、大法と向き合い、生命の微小さと佛法の偉大さをどのように認識するかは、私たちが常に修めなければならないことかもしれません。そして新しい宇宙では、神を畏れる者だけが善人と言え、修煉者にふさわしいのです。
(責任編集、李明)