【明慧日本2024年6月2日】私は高齢の大法弟子で、1999年修煉し始めました。その間、数年の迫害を受け、苦楽を共にしてきて、慈悲なる師父に守られて今日に至っています。しかし、まだ浄化されていない心、特に嫉妬心があります。今はそれをさらけ出して取り除きます。
昨秋のある日、女性同修が突然、明慧ネットや正見ネットの定期刊行物と書籍を袋半分、電動自動車で私の家に持って来ました。当時、私は非常に不満を感じていました。私たちは自分のお金で紙を買い作成したのをただ読むだけ読んで、読み終わったら自分の家に置く場所がないと言い、全部梱包してまた私の家に返しにきました。自分のことだけ考えて、他人のことを全く考えないようでは、これでも修煉者と言えますか。
その後、内に向けて探し深く掘り下げると、自分が強い嫉妬心と不満な心があることに気づきました。修煉者は偶然なことはないので、師父はこのような形を使って、自分の深く隠された人心を露呈させたに違いありません。
私は心から同修の困難や苦労に理解すべきであり、彼女は読んだ後、本当に置く所がないので、送り返したのかもしれません。同修のために思うことは、修煉者の基点であり、きっとこちらにも人心があるから同修が私を試したのだと思い、それは良いことではないでしょうか。また、他の人心が影に隠れており、しっかり探さないと気づかないのです。探したら嫉妬心だけではなく、怨恨心、闘争心、名誉心も見つかりました。
師父の説法を思い出しました。「あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです」(『精進要旨』「再認識」)。本当に、同修に感謝しないといけません、そうでなければ、自分がこれらの人心があることに気づかなかったでしょう。
同修は、私にこのことに遭遇させ、自分が修めなければならない人心と執着に気づかせてくれました。今、ようやくそれを捕らえ、暴露し解体します。私たちが同修であることは、本当に神聖なご縁に違いありません。それを大切にし、共に精進し、これからの修煉の道を共に歩き、師父の慈悲なる済度を裏切ってはなりません。
適切でないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。