【慶祝5.13】すべてが私を大法に導いた
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文/米国の大法弟子

 【明慧日本2024年7月17日】私は西洋人女性です。2023年8月、26歳の誕生日の約1カ月前に、私は法輪大法の修煉を始めました。修煉の最初の数カ月を思い出すと、私はこの法を得るために、この世に生まれきたと確信しました。李洪志師父に感謝します。

 ハワイで生まれ育った私は、家族が浄土宗に出会ったこと以外は、ほとんど世俗的な教育を受けてきましたが、子供の頃、私は家族が精巧に輝く黄金の寺を背景に数珠を手に巻き、阿弥陀仏の名前を唱えているのを見たのを覚えています。私は部外者のように感じ、儀式的な手順を踏む単なる傍観者ではなく、精神的な体験の中に入ることが何を意味するのか疑問に思いました。私は寺院と読経が何を意味するかについて興味を持ちましたが、それでも、私は依然として物質主義的な観点からのみ世界を探索していました。

 私が思春期初期にソーシャルメディア中毒になり、人に接するときの態度が悪化しました。それにより、私がすでに持っていた評判、社会的地位、そして自分の外見への執着がさらに煽られました。大学時代にニューヨーク市で現代的な大学文化にあふれていたときでした。無神論、経験主義、自己検閲、政治的イデオロギーのため、私の道徳心と神への信仰は過去最低に達し、自分の落ち着きのなさがどこから来ているのかを知りたいと思いました。精神的および心理的資源が不足していたため、私は古典的な油絵に惹かれ、技術と伝統が大切に受け継がれる工房に弟子入りしました。

 私はユニオンスクエアで法輪大法について人々に伝えている修煉者を見て、少し気になりました。私は法輪大法に初めて出会ったのはアトリエでしたが、自分が無意識のうちに恐怖と検閲の中で生きてきたことに徐々に気づきました。疑問の余地なく現代的な概念を吸収し、私は新しい大学の集中修士課程に応募しました。

 修士課程が始まったギリシャで、私は最初から地上の愛の追求が、ギリシャのサモス島の美しくロマンチックな環境の中で、私の修煉に直結する執着として燃え上がりました。修士の仲間と出会い、ギリシャ語の授業の熱意、そして私がその恩恵を受けた経験の圧倒的な寛大さと豊かさに出会ったとき、私は同じ修煉者の1人に対する強い愛慕を抱くようになりました。

 『オーストラリアの法会での説法』の中に、ある学習者が質問し、師父は次のように答えられました。

 弟子:いつも自分の法理に対する理解及び認識と近い人、あることに対して同じ悟りを持つ人と交流し、切磋琢磨するのも執着でしょうか?

 師:自分と話の合う学習者と接触したいという考えに、人間の心が作用しているかどうかみるべきです。もしそれがなければ別にいいのですが、間違った要素があれば、精進の障碍になり得るのです。

 法を取得した瞬間から、私は愛の追求に対する執着と格闘し、しばしばこの同修と過ごした時間を正当化しています。煉功したり、一緒に法を勉強したりするなどの巧妙な合理化で自分の執着心をカバーしました。

 愛の追求には、嫉妬、欲望などのさまざまな執着が密接に結びついております。そのプログラムの強烈さにより、参加者は食事、旅行、生活、ギリシャ語の練習など、一日のほとんどを一緒に過ごすことになりました。ハイキングや水泳、その他多くの活動で、私の愛着の対象となっていた同修との絶え間ない接触により、私は彼に対する執着を刺激され、現実を理性的に認識することがほとんど不可能になったように感じました。私が執着に沿って世界の中で私の動きを方向づけさせながら、霧の中で動き回っていました。

 『轉法輪』に対する私の理解は浅く表面的で、限定的で、他の精神的な本よりも私の心に響く単なる説教じみた道徳の本だと考えていました。

 師父はこう説かれました。

 「通常、この本をはじめて読むとき、この本は人々に良い人間になるための道理を説いていると感じるのです。二回目に読むとき、感じたことが異なり、これは修煉の本だと気付くのです。三回目に読むとき、もし本当に続けて三回読むことができれば、この本をもう手放したくなくなり、時間があれば読みたくなり、これが天上の本であると分かるようになります」(『各地での説法一』「米国での第一回説法」)

 まさに師父が説かれたとおり、ギリシャでの修煉の初期段階では、私は自分が修煉したものの広大さ、奥深さ、深さを認識する能力がありませんでした。もちろん、時間が経つにつれて、私は自分が経験してきたことを理解するようになりました。それどころか、私がニューヨークに住んでいる間、大法の存在は私の視界の隅にあり、アトリエでの修煉者たちとの出会い、そして修士課程での修煉者たちとの縁はすべて私に、先史時代に師父に誓った誓約を思い出させてくれました。

 修煉の最初の数カ月間、私は学法と煉功することと、男性同修を追求することへの執着が混ざっていてました。私は自分が修煉したいから修煉しているのか、それともより多くの時間を費やす、男性同修と一緒にいるために修煉しているのかを正しく識別することができませんでした。私は唯物論的な考え方をしていたので、特に1人でいるときは、私は迷ってしまいます。その迷いを解決するため、私はすぐ『轉法輪』を読みます。読んでいるうちに、自分の考えが変わったとわかりました。

 プログラムの集中的な2カ月の言語交流部分が終了した後、その年の哲学と文学の部分がジョージア州サバンナで始まりましたが、それは嫉妬と名誉に執着する私にとって特に困難であることがわかりました。哲学のセミナーで私の競争意識が現れることがありました。そして、貢献する価値のあるものが何もないという不安を過剰に埋め合わせようとしていた自分に気づきました。

 私は携帯電話への執着が更にひどくなりました。メッセージが届いていないか、見逃している出来事がないかを常にチェックしていました。私が特に愛着を持っている人たちに拒絶されること、忘れられることを深く恐れていました、どちらも私の初恋以来の繰り返しの心理問題です。 

  サバンナのシェアハウスでは、同僚の顔が私の目の前で憎しみ顔に変わる瞬間が何度もありました。そのとき、私は自分の意志を鍛えて、摩擦を起こさずに社会状況を乗り越えようと努めました。忍耐が必要でした。友人たちの顔に現れた悪魔のような、あるいは邪悪な表情は、私の内面の状態を反映しているにすぎないと自分に繰り返し言いました。

  サバンナでは、一日を過ごしている間、私の体、特に手と顔に気の温かさが浸透するのを感じ始めました。座禅をしていると、頬骨が押されたり引っ張られたりするような感覚があり、心臓の鼓動のような感覚が体中に響き、甘い香りが顔に漂い、時折その香りが漂ってくるのを感じました。私の頭髪の周りも同じ香りがしました。

  この学問への勉強は、私にとって試練でした。なぜなら、私たちが授業で読んだり議論したりする本の多くはキリスト教の神聖な文書であり、この種の文書にこれまで触れたことのない私は自然と連想的なつながりの観点から考えるからです。私は時々、神学を混同し、別の神学体系から人間的なものを大法の理解に持ち込むという誤りを犯しました。

 師父はこう説かれました。

 「現在の常人社会が知っている八卦の理や多くの数術のものでも、銀河系を超えていません。ところが、この宇宙は大きく、あなたには分からないほど大きいのです。三千個の我々のような宇宙が、更に大きな宇宙を構成しています。三千個の更に大きな範囲の宇宙が、更に更に大きな範囲の宇宙を構成しています。そこには数え切れないほど多くの神、佛がいます。その銀河系は何ほどのものですか? とても小さいのです。大法を学ぶ人は、考えてみてください。こんなに大きな法をあなたに伝えたので、修煉者であればそのような精力を費やす必要はないと私は思います」(『シドニー法会での説法』

 したがって、西洋の神学的、哲学的、芸術的、文学的規範の環境に浸している中、私が出会った法輪大法がいかに包括的で超常的なものであるかを思い出すことは、試練でした。授業は奥深く、豊かであり、人間が神を理解するための文化的基盤を築くのに確かに役立ちますが、大法だけが直接人間を救うことはしかできません。  

 冬休みにハワイに帰ったとき、私は誰のために法輪功を修煉しているのか、その修煉は自分の意図と一致しているのかという重要な疑問を解決しました。家に帰って最初にやりたかったのは法を学ぶことでした。まさに師父のおっしゃったとおりだったです。「…この本をもう手放したくなくなり…」(『各地での説法一』「米国での第一回説法」)

 1月、冬休みに熱心に法を学び、煉功した後、数週間続いた生理期間と業力の除去の急性期を経験しました。これは、私ができるさらなる試練だと考えています。私は自分自身を修煉者なのか常人なのかを見てきました。

 師父はこう説かれました。

 「ですから修煉者は、もしどこか具合が悪くなったら、皆さんに教えたことがありますが、それは病気ではありません。しかし常人が思っている病気の症状は、修煉者が身体の業を滅するときに現れる状態と同じなので、常人はなかなか区別できません。ですから、修煉は悟りを重んじます」(『米国法会での説法』「ニューヨーク法会での説法」)

 私は生理が来て最初に思ったのは業力の軽減だということでしたが、生理が数週間続くと一瞬迷いました。

 私は医者に診てもらうというよりはむしろ自分を修煉者として見做さなければいけないと理解しました。また私は自分の表面的な症状の解決策を求めても、別の次元に住んでいる病気の根源に触れることにはならないとわかりました。

 2月に私は大法のメディアでリモートで働き始めましたが、この機会を私は修煉の進歩を意味するものとして捉え、師父が私に大法のプロジェクトに貢献するよう按排してくださったことにとても感謝しました。それで、夏の間、事務所に行って仕事をしたいと申し出たところ拒否され、私はすぐに自分の修煉が不十分で、大法弟子としてふさわしくないと感じました。

 もちろん、私が以前は気づいていなかった執着、特に自分の価値に対する人間の承認への執着が明らかになったので、これは私の大法への信念が揺るぎないものであるべきだと今では考えています。もし私が大法の修煉者であると認めてくれる人々に頼るなら、それは私が正しき心を持たないことを意味します。そして、私が修煉する上で適切な時期に適切な試練に遭遇することを知っています。

 これは、私が大法を修煉して最初の8カ月間で明らかにしたことを要約しています。苦しみの瞬間、執着がさらけ出された時こそ、師父と法に対する私の信念はますます強くなりました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/5/5/475897.html)
 
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