手を取り合う
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2024年7月23日】10年前、私たちには修煉者6人の学法グループがありました。ある日、私たちは一緒に『轉法輪』を勉強して、最後の第九講を読み終えたとき、私はある光景を見ました。

 『轉法輪』の数行の文字が、突然、金太郎の腹掛けをした男の子と、三つ編みのおさげの女の子になり、みんな整然と坐禅して小さな手を取り合い、目を伏せてとても安らかな表情をしている場景でした。 

 それは、私たち数人の同修がこの学法グループを続け、互いに手を取り合い共に精進していくことだと、私は理解していました。 

 当時、私たちの学法グループは、ある同修夫婦の家で行われていましたが、メンバーの4人はお金を稼ぐのに忙しく、自分の家ではあまり学法しない人たちでした。毎週の学法の時間を決めると、その状況が変わりました。私たちは一緒に法をたくさん勉強することができ、互いの修煉の問題点を指摘し合うこともしました。しかし、私たちは各自の修煉不足と法に対して未熟な認識であったため、その後、この学法グループは長続きせず解散してしまいました。表面的には、自宅を提供していた同修夫婦の家庭環境の変化が原因のようでしたが、それが本質的な理由ではないと、私にはわかっていました。 

 昨年、私は当時の学法グループにいた女性同修に会いました。彼女は「金儲けのことばかり考えて、あまり法を勉強していなかった」と自分を責めていました。彼女は師父がまだ自分を見守って下さっていることを知っているものの、それでも精進できていないようでした。彼女は「数年前、あの学法グループの同修夫婦の奥さんがバイクで3階まで上がったあと、バイクが衝突する夢をみた」と、彼女が見た夢を私に話してくれました。しかし、その同修夫婦と互いに隔てがあるため、その夢のことを彼らに伝えることはなかったと言いました。

 かつて握り合っていた手を、私たちは緩めて外してしまったことは、とても残念なことです。実は私たちの心の奥では「私たちはともに人を救う善の心を持っているのに、お互いを大切にしなかった」と思っているはずです。

 師父が私に見せてくださった光景を、なぜ今思い出したのかというと、最近、ある同修のところに行ったとき、私と彼女の間に、明らかな修煉の差があることに気づいたからです。彼女は私の執着を率直に指摘して、長い間私を混乱させていた執着に気づかさせてくれたのです。その執着に気づいたとき、私の頭の中で、木の根がどんどん伸び広がっていく光景が映りました。それは指摘された執着が、さらに醜く劣った執着へと分化していく様子だとわかりました。もし彼女が指摘してくれなかったら、私はそれにまったく気づかなかっただろうし、未だにその執着にコントロールされているかもしれません。

 なかなか気づかない執着は修煉の障害となってしまうため、修煉の難しさをしみじみ感じます。ですから、私たちは互いに手を取り合うことが必要だと思います。私はずっと、私の問題点を指摘してくれた同修たちに心から感謝しており、同修の智慧と率直さに感心しています。修煉者の私たちは好きなように交流し、感情は軽く、互いに正直で、肩を並べて前進し、手を取り合えば、より速く進むことができると思います。

 私たちはどこにいても、最後まで手を取り合うことができますように。一緒にいる時間を大切にしましょう。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/7/11/479486.html)
 
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