【神伝文化】 顔氏家訓(がんしかくん)によって、「子供を教育する」を論ずる
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 【明慧日本2024年9月13日】この節で主に書かれているのは、親である者は子供をただ甘やかすのではなく、幼い頃から子供に対して厳格な道徳教育を施し、子供に人としての在り方を教えるべきだ、ということです。以下は選択した内容です。

 知恵のある人は教えなくても立派な人になるが、愚かな人は教えても意味がない。しかし、大多数の普通の人は教育されなければ人としての道を知らない。昔の聖王には「胎教」の方法があった。妊娠して3月目に入ると、別の宮殿に移り住み、不適切なものを見たり聞いたりせず、音楽を聴くことや食べることも礼に基づいて節制し、その内容を玉片に書いて銅の箱に収めていた。子供が生まれて幼少の頃には、王族の子弟を教える「師保」を招き、孝行、仁愛、礼儀、義を教えた。普通の庶民の子供でも、同じことができなくても、子供が人の顔色を読み、他人の喜怒を感じ取れるようになった時点で教え始めるべきだ。して良いことはさせ、してはならないことは絶対にさせない。このようにして数歳まで育てば、鞭打ちのような罰を避けることができる。親が威厳を持ちながらも慈愛を持って接すれば、子供は畏敬と慎み、そして孝行心を抱くようになる。

 私は今、世の中の親たちが子供にただ愛情を注ぐだけで、教育をおろそかにしているのを見ている。多くの人はこれを何とも思わず、食事や行動を勝手にさせ、叱るべき時に褒め、咎めるべき時に笑っている。こうして子供が成長する頃には、その行為が当然のことだと思い込むようになる。傲慢さや怠慢が習慣となり、この時点で止めようとしても、いくら鞭打っても威厳はなく、逆に怒りが増すばかりで、子供の恨みを募らせるだけだ。大人になってからでは、最終的に子供は徳を失った人間になってしまう。孔子は「幼い頃に身についたものは天性のようであり、習慣は自然のようなものである」と言っているが、これはこのことを指している。俗に「嫁を教えるのは来たばかりの時に教え、子供を教えるのは乳児の頃に教える』と言われているが、これはまさにその通りだ。

 人々が子供をうまく教育できないのは、故意に子供を悪の道に導いているのではなく、ただ叱って子供の顔色を変えさせるのが忍びなく、鞭打って痛めつけるのが可哀想だからだ。しかし、病気に例えるなら、湯薬や鍼灸で治療しないで放っておくことができるだろうか? 子供に厳しく教育する親たちを見れば、彼らが本当に我が子を罰したいと思っているだろうか? これは本当にやむを得ないことなのだ。

 父と子の関係は厳格であるべきで、軽々しく尊敬を欠いてはならない。骨肉の関係は愛で繋がっているが、軽率で怠慢ではいけない。怠慢であれば、親孝行の心が欠け、軽率で尊敬がなければ、傲慢さが生まれる。

 人々は子供を愛しているが、均等に愛を注ぐことは少ない。古今を通じて、このような欠点は非常に多い。賢明で俊敏な子供はもちろん愛されるが、頑固で愚鈍な子供こそ、より一層の愛情を注がれるべきだ。偏愛する親たちは、子供に良かれと思っているが、実際には災いをもたらしていることが多い。

 斉の時代にある士大夫が私に「私は17歳の息子がいる。彼はかなり奏疏を書くのが得意だ。彼に鮮卑語や琵琶の演奏を教えたが、ほとんど覚えた。これを使って公卿に仕えれば、寵愛を受けないことはない。これは非常に重要なことだ」と言った。私はその時、下を向いて何も言わなかった。本当に不思議なことだ。この人はどうしてこのように子供を教育するのだろうか? もしこのような方法で卿相にまでなれるなら、私はあなたたちがそれをしないように願う。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2007/1/11/145467.html)
 
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