文/ワシントンDCの大法弟子
【明慧日本2025年3月1日】同修の中で、自分はなぜ大法を信じるかについて話し合う人がいます。常人に話しても問題ないですが、一定期間修煉してきた修煉者は、このような疑問を持つならば良い兆候ではないと思います。
とても有名な香港映画『インファナル・アフェア』にこんなシーンがあります。あるマフィアが主役のヤンを潜入捜査官ではないかと疑い、「私たちはまだ生死を共にする相棒なのか」と問います。その時、ナレーションは「彼に相棒かどうかを尋ねた瞬間、私たちはもう相棒ではなくなった」と言いました。なぜですか、証明しようとした瞬間には既に疑いがあるからです。そうでなければ証明する必要がありません。この例えはそれほど適切ではありませんが、人間社会の常識でさえそうなのだと私は説明したいです。まして人間の感情に基づいた信頼関係より、信仰というものは遥かに神聖なのです。
つまり、証明しようとする考えが浮かんだ時点で、それは疑っている証拠です。逆に、もし大法への信念は何か別のもので証明できるとしたら、それは、あなたがその証拠や証明過程を信じていて、大法自体を信じているわけではありません。つまり、証明過程自体が、実はあなたが大法を信じていないことを示しています。法それ自体が基準ですので、他の基準でそれを証明する必要はありません。局部をもって宇宙全体を証明する、一個人の現在で認識していることをもって高い基準(宇宙の根本的な法則)を証明しようとする考え方は合理的でしょうか。このような実証科学の方法で導き出された結論を、どれぐらいの信ぴょう性がありますか。
「なぜ大法を信じるのか」という質問について、私は考えたことがなくて、ただただ、信じているだけです。同修Aさんに「なぜ大法を信じるのか」について考えたことがありますかと聞いて、Aさんは「いいえ、全く考えたことがありません」と答えて、そして、自分はどのように無神論者から神を信じるようになったかを話してくれました。それは一瞬のことで、師父の説法を聞いた時の一つの瞬間に、「ああ、神が実在するのだ」と信じるようになりました。しかし、彼女は今、その瞬間でどのように信じるようになったのかを思い出せません。つまり、本心から信じるようになる過程は、肉眼で見える世界に存在するものではなくて、別の空間で一瞬にして成り立ったものです。本心から信じる人は、「なぜ信じるのか」という疑問すら持ちません。だから、このような疑問は信じない人によってよく尋ねられるものです。
実際、私たちがよく使う「師父と大法を信じる」という表現も、それほど正確ではありません。修煉の本質は法に同化することで、真の自分に戻る過程(返本帰真)です。真の自分と俗世間の自分が共存し、一体両面の関係にあります。つまり、自分自身を信じないということはあり得ますか。
また、なぜ大法を信じるのかを考える時、実際には大法を自分の外に置いてしまったからこの質問が生じます。もちろん、大法に初めて触れる人にとってはこれは異常ではありませんが、ある程度修煉している人がまだこの疑問を抱くなら、自分の修煉を見直す必要があると思います。