自分の過ちを認めないことによって引き起こした問題
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年1月8日】ある年配の同修のことを聞いて、私の心は複雑な心境になりました。この同修は真相を伝えることをしっかり行っていました。ところが、今年の後半になって、腹部のあたりが膨張し排出できず、たいへん苦しんで亡くなりました。

 この同修の病業が現れている間、多くの同修が見舞いに行き、この同修のために発正念をして、また「内に向けて探してね」と伝えました。しかし、この同修はいつも「何を探せば良いの? 間違いもないし、三つのことをしっかり行ったのに、なぜこのようになってしまったの?」と答えました。そうして、この同修は不信感を抱き、疑問と不満を持ちながらこの世を去りました。

 私が知っている同修の中に、自分の過ちを認めない人がいます。彼らはいつも、「師父の言う通りに行ったから、何も過ちがなく、内に向けて何を探せば良いのか? なぜ良くならないのか? なぜ他の人は大丈夫なのか? わたしだけいつも辛いのか?」と話しています。これらの同修は非常に不満を持っており、自分が多くのことをやったのに、結局のところ、病業や業が重く悔しくてやりきれないのです。

 実は、師父は三つのことをしっかり行うようにと言われましたが、更に私たちに、内に向けて探し、自分を修めることを要求されました。これらの同修の中には、内に向けて探すことがわからない同修や、内に向けて探したくない同修もいて、どうやって内に向けて探したら良いのかという同修もいます。ですから、内に向けて探すことに対して、しっかり行えないのは彼らの共通の問題であり、そして、彼らを辛くさせる根本的な原因なのです。

 修煉の中で、過ちを認めないことは最大の問題です。上でお話した同修はこの点でつまずいてしまったのかもしれません。更にずっと正しくない状態、良くない状態が続いていて、また自分の過ちを認識できないので、これは最大の鍵となる問題です。以下、それら六つの問題点を書き出してみました。

 まず第一として、自分の過ちを認めないことは師父を信じない、法を信じないということです。

 「修煉している人は修煉する神ではなく、修煉の過程では誰でも誤りがあります。肝心なのは、それらの問題をどのように対処するかということです。誤りを認識できる人もいれば、できない人もいます。また、恐れる心など各種の要素に執着しているため、認識したくない人もいます」[1]。「邪悪がいくらはびこっていても、あなたに問題がなければ、あなたに手を出すことができません」[2]。「煉功の時にあれこれと妨害が現われてきた場合、まず自分自身から原因を捜し、まだ何か捨てなければならないものがあるのではないかと考えるべきです」[3]。師父は誰でも過ちがあると説かれました。法の中に、「あなたに問題がなければ、邪悪があなたに手を出すことができない」と書いてありますが、しかし、完全に問題がない人は、人でなく、神です。神であれば、修煉する必要がないし、修煉するところもありません。過ちがなければどうやって修煉するのですか? 人間であれば、必ず修めるところがあり、必ず過ちがあります。修煉者なら過ちがあることを認識すれば、自分も必ず過ちがあり、これは修煉の前提条件です。だから、必ず自分には過ちがあると認識すれば、これは師を信じ、法を信じることです。

 第二、自分の過ちを認めなければ真の修煉にはなりません。

 「本当に修煉するには、心に向かって、内に向かって修め、内に向かって探さなければならず、外に向かって探してはいけません」[3]。毎日経文を読んで、煉功して、そしてずっと真相を伝える活動を行って、これによって精進し着実に修煉していると思っても、実はそうではありません。大法弟子に対して、基準があり、無条件で内に向けて探すことができるのなら、大法弟子と言えるでしょう。

 つまり、物事を行うのは修煉でなく、忙しい状態は精進ではない、活動的なのは着実に修煉することではありません。情熱、努力、頑張って真相活動を行い、耐えるなどは実際に修めることではありません。責任を他人になすりつけない、隠さず、内に向けて探し、自分を修める、これが修めることです。師父は「修煉が非常に精進しているように見える人がおり、法の勉強も煉功もしていますが、内に向かって探していません。内に向かって探していなければ、皆さん考えてください。それは常人ではありませんか?」[4]と説かれました。

 上の同修を例として、実は彼女は気持ちが非常に重く、そして恨む心がありました。同修たちはすでに彼女に伝えましたが、これらの明らかな問題に対して、もし彼女がしっかりと修め、執着心が修煉によって徐々に少なくなったなら、状況が改善できたと思います。

 第三、過ちを認めなければ、心性が向上せず功が伸びることはありません。

 「高次元の法が分からないために修煉ができないことと、内へ向かって修めず、心性を修煉しないので、功が伸びないのです」[3]。ではどうやって高次元の法が分かるのですか? 答えはその次元の法の基準が分かることです。法の基準がわからないと、法を得ていないということです。例えば、ある同修は、法を勉強すると同時に、人を罵ったりします。法の基準とは、善意を持って他人と付き合い、口を修め、蓮の花を出すことなのです。このような同修は、少なくともこの点において、口を修める法理を得ていません。学法しても必ずしも、法を得るとは限りません。法を得た人なら、法はその人の心の中に根ざし、法で物事を計り、法に基づいて、やるべきこととやるべきでないことがはっきり分かります。

 内に向けて探し、自分を修めるというのは何を修めるのでしょうか? 法の基準に合わない思想観念や、物の言い方と立ち居振る舞いなど、すべて修めて取り除くことです。例えば、学法して法を学び、人を罵ったりすれば、口を修める点で、心性はずっと常人の次元にいるのです。もしこの同修が、人を罵ることが間違いと認識できて、法の基準に従って他人の気持ちを考え、自分の口を修め、人を罵る習慣を取り除くことが出来れば、心性が向上し、功が伸び状況が改善する可能性があります。

 第四、過ちを認めないと、名利と情を放下できません。

 「間違っていても認めず、自分が間違っていないと他の人に知ってもらいたいために間違っていないように振る舞っていれば、誰もがあなたを軽視します。あなたのやり方が常人の手段だからです」[5]。

 なぜ間違っていても認めないのでしょうか? ある修煉者は常人の時、人より優位に立とうと頑張り人に勝って喜び、競争し、傲慢で雄弁であり、過ちを認めず、頭を下げたことがありません。過ちを認めない、他人の意見を受け入れない、間違いを直さない、この観念がすでに根付いてしまっているのです。ですから、修煉した後でさえ、同修が幾ら忠告し、法理を伝えても、「私は間違っていない」という観念がこの人をしっかり支配していました。この観念を変えなければ、毎日法を勉強しても、毎日真相を伝えても、この人はずっと過ちを認めず、直すことができません。この人は自分が間違っているという現実を受け入れることができず、根本的に内に向けて探すことが全くできません。

 人は顔が命より大事だと思うと、この人は顔のために命を失っても構わず、一生懸命自分が間違っていないと証明します。顔(メンツ)を守るということは自分の名利を守ることです。人に言わせず、内に向けて探さず、過ちを認めず、これは自分の名声と財産を守ることではありませんか? 修煉は執着心を放下することなので、名利を守れば、これは法と逆の方向に向かって進むことではないでしょうか? 上の同修を例として、大小便を排泄できず、お腹がボールのように膨らんで、これは彼女を啓示することでないでしょうか? つまり、放下できないゴミが多すぎで、放下できないから、辛くても持つしかありません。もし彼女が真に夫婦の情、子供への情、恨む心などを放下できれば、彼女の体の状況は良くなったと思います。

 第五、過ちを認めないのは、旧勢力の按排を否定しないことです。

 私たちは常に「旧勢力の按排を否定する」と言いますが、どうやって否定するのでしょうか? いくらそれを言っても、発正念し、資料を配っても、そうすれば否定することになるのでしょうか? 実は修煉者は、過ちを認めず、内に向けて探さず、自分を修めず、情を放下できない時、旧勢力と同じで、自分を動かしたくないので、旧勢力の按排を否定することができません。

 ある女性の同修は子宮出血になりました。彼女は、自分の執着心を探し、見つかったらメモし、見つかったらメモして、それらを書き留めました。彼女は欲深い心、安逸心、恐れる心などなどを見つけました。また法に基づいて真剣に修めました。10年後、そのメモ帳は字で溢れましたが、彼女の子宮出血も治りました。まず彼女は自分の間違いを認め、執着心を見つけたらすぐ取り除き、過ちがあればすぐに直し、漏れがあればすぐに補い、人心があればすぐに放下しました。

 第六、過ちを認めないと、法を疑うことになります。

 同修は、「私は過ちがないし、三つのことを行って、なぜこのようになったのでしょうか?」と言いました。実は、この言葉の中に、「私はやるべきことをすべて行ったのに、師父はなぜ私の体を浄化してくれないのか? 法がなぜ私を守らないのか?」という理解できない、疑い、恨みなどの気持ちがあります。潜在意識の中に、「私はやったのに、師父はなぜ私を構わないのですか? やったのに、法がなぜ私を守らないのですか?」という意味があります。実はこのような考え方の中に、個人の強い目的や、求める心が隠れています。「いろいろな目的を追求しながら功を学び、大法(ダーファ)を学ぼうとしても、何も身につけることはできません」[3]。一部の人は、無私無我の状態に達していないので、三つのことを行って、何かがあると、疑い、恨み、更に師父を疑ったり、大法と駆け引きをしたりします。このような良くない心があるため、自分の状態も良くない方向へと行ってしまいます。

 私たちは内に向けて探さない時、法を疑うようになり、法を信じなくなり、修煉の道からますます離れて、常人の次元に落ちていきます。師父と大法は無条件で常人を守ることができないので、これが一部の同修の病業がますます重くなっている原因の一つです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作『精進要旨(三)』「私からの棒喝」
 [2] 李洪志師父の著作『大法伝出二十五周年ニューヨーク法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作『轉法輪
 [4] 李洪志師父の著作『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』
 [5] 李洪志師父の著作『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/12/27/417066.html)
 
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