文/中国の大法弟子(前文に続く)
【明慧日本2025年3月5日】その後、同修の家で集まりがありました。終わり頃、同修Aさんが到着しました。Aさんは私を見て躊躇し、すぐには挨拶をしませんでした。私は何も言わず、Aさんがどのように話を切り開くかを待っていました。Aさんがずっと「スパイ」の話題に触れないのを見て、もう待たずに帰ろうとしました。その時Aさんは私を止め、「全てはもう過ぎました。私たちは以前と変わらず付き合いましょう」と言いました。来る前に私は、Aさんが誠実に謝り私が寛大に許す場面を予想していたのですが、今、Aさんはまさに私のセリフを言っているのでした。
同修Aさんは狡猾な人心を持ち、この事をごまかそうとしていると私は感じました。私の名誉を汚し全体の不安を煽って、こんなに大きな問題を真剣に反省せず、素直に謝罪せず、被害者に対してまた上から目線で話し、たった一言で済ませようとするなんて、私はAさんの態度に大きな不満を抱きました。
そこで私は、Aさんに「この件はもう終わったとは思っていません」と伝えました。Aさんは、「では、どうすれば良いですか」と言った時、私のどこに不満を抱いているのかと聞き返すと、Aさんは「他の同修があなたをスパイだと言っているだけで、私が言ったわけではありません」と答えました。
私は心の中で、「なぜこんなに無責任なのですか、他の同修が言ったとしても、あなたもそれを言いふらしたではありませんか。他の人が私をスパイだと言ったらあなたもそう信じて、他の人が私をスパイではないと言ったらあなたも『スパイではない』と思い、自分の判断がないのですか。これって、環境の混乱を招いているだけじゃありませんか」と言いたかったのです。
自分の感情が不安定になっていることに気づき、私はコートを取って帰ろうとしました。すると、Aさんが慌てて追いかけて来て「ごめん、私を恨まないで」と言いました。「Aさんが気にしていたのはそれだけか」と、私はがっかりしました。「あなたが私の悪口を言って私に徳を与えているので、あなたを恨みませんよ」と答えると、Aさんはすぐにこう言いました。「どうして私があなたに徳を与えることになるのですか、私も大法を守るつもりでそうやっているんです」と。私は失笑して、心の中で「根拠のないデマを広めて、同修の間で噂を広めてスパイを探して、それを法を守ると言えるのか」と思いました。そして「Aさんの修煉状態はもう変わらない、これからは彼女に関わらない」と心に決めました。
ある日、『ヨーロッパ法会での説法』を静かに学んでいる時、師父のお言葉を目にしました。師父は、「ですから、いざこざが起こった時には、各自が内に向けて自分の原因を探さなければなりません。その出来事があなたに責任があるかどうかは関係ありません。私の言った話をしっかり覚えておいてください。自分に責任があるかどうかにかかわらず、自分に向けて探してください。必ず問題が見つかります。もし、このことがあなたと絶対に関係なく、あなたに取り除くべき心がなければ、このことがあなたの周囲に発生することは滅多にありません。もし、あなたにこの心がなければ、トラブルが引き起こされることはありません。自分の修煉に責任を負わなければなりません。トラブルがあなたの身に、あなたの周辺、あなたたちの間に現れれば、おそらくあなたと関係があり、あなたに取り除くべきものがあるはずです。あなたのせいであるかどうかは関係なく、私の法身はあなたの心を取り除く際、このことがあなたのせいであるか、または彼のせいであるかは問わないのです。あなたにこの心がありさえすれば、あらゆる方法を尽くして、いざこざに遭わせ、まだ取り除かれていない心を認識させます。それでもあなたたちはまだ『これは私のせいではない』と言い訳をしています。または、あなたは『私は法を守っている』と考え、彼も『私も法を守っている』と考えているのです。実は、あなたたちには恐らく双方に間違ったところがあったために、矛盾が生じたのです」と説いておられました。
これはまさに、師父が私に対しておっしゃっているようでした。「この一回一回は、師父が私の向上のために用意された機会だったのだ」とすぐに分かりました。
師父のお言葉はとても明確で、これ以上考えたり悟ったりする必要がなく、ただ従って実行すればいいのです。しかし私は師父のお言葉を忘れて、外にばかり目を向け、常人レベルの正しいかどうかを議論し、自分が正しいと思えば他人を許さない姿勢でした。自分が不当に扱われていると感じ、強い闘争心を持ちながらもそれに気づかずにいました。その結果、師父が按排された向上の機会を何回も逃してしまいました。これほど長い間修煉してきたのに、なぜまだこんなに未熟なのでしょう。
しかし、自分の不足に気づいたとしても、深い根源を探ることをしませんでした。「法を守りたい」を口癖にして狡猾な人心は深く隠されていたのです。
ある日、グループ学法の後の交流で、修煉状態が良くない同修Bさんをどう支援するかという話題が出ました。同修Cさんは「私はこれには関わりたくありません」と断固とした態度を示しました。Cさんはその同修の状況をよく知っており、修煉を始めてからずっと状態が望ましくなく、誰も彼女を変えられないと考えていました。
私は、Cさんの態度を見て、Aさんに対して私も同じような態度を取っているではないかと反省しました。Aさんが変わって向上することはないと思い込み、もうAさんと関わりたくありません。しかし、今振り返ると、問題はAさんがどうであるかではなく、私がAさんにどんな修煉者になってほしいかにあったのです。当時の私の脳はまるで閉鎖されたようで、法理を思い出せない状態だったのです。
私は自分の理解や感じたこと、望むことを最優先にしてしまい、法を最優先にしていませんでした。自分が設定した基準で他の同修に要求し、自分の考えに固執し、一方的に相手を変えようとするのは、外に向けて求めることであり、これは自分の正しさを証明することで、法の偉大さを証明するものではないのです。それは、自分自身を証明することが問題の根源だったのでした。
実は、以前から気になっていたAさんの行動は、師父が私に自分自身を見つめ直すよう示してくださっていたのです。Aさんは私自身を映し出すために鏡の役割を果たしてくれていたのでした。
Aさんに会うとすぐに異常なほど反感を感じ、冷静さと優しさを失い、Aさんの行動に振り回され、感情が不安定になり、修煉者として落ち着いて話すこともできないのは、私自身にもAさんと同じ問題があったからです。それはつまり共産党文化、強引さ、外に向けて求める姿勢、自分自身を証明したい心でした。私は自分を過大評価して、法理を深く理解し法理に従っていると自負していたからです。
私はAさんの過失を笑ったのですが、実は笑われるべく人は私自身でした。こう思うと、ずっと心に詰まっていたものが突然晴れ渡り、Aさんの変化に固執しなくなりました。心がすっと軽やかになり、まるでその出来事がとても遠い昔の、とても小さいことのように感じました。Aさんが言っていた通り、すべてはもう過ぎました。
ここまで書いて、修煉は他の人を見るものではないことに気づきました。修煉者にはそれぞれ異なる出自があって、誰も自分だけの返本帰真の道を踏み出す必要があります。師父のお言葉に従うことが出来てこそ、はじめて法によって浄化され、生命の更新を遂げられ、はじめて大法の素晴らしさを実証することができます。
修煉の過程でのわずかな理解に固執することは、自らを縛ることに他なりません。また、それを基準に自分を要求して良いですが、他の同修を量ったり判断したりしてはいけません。そうすることは、外に求めることであり、法からの逸脱の始まりです。謙虚な心を保ち、他の人が自分と異なるのは正常なことで、それによって宇宙が繁栄するのです。
謙虚を持って、自分が与えたいものを与えるのでなく、人が必要とするものだけを与えるのです。見返りを求めずに人を助けることこそが真に人のためで、真の善です。
(完)