文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年3月27日】数日前、我が家のトイレのタンクから水が漏れていました。どうしても原因がわからず、修理業者に電話で相談しました。業者の指導のもと、少しずつ原因を探ったところ、水漏れの原因は給水管の接続部分の緩みだとわかりました。私は大変な苦労をして、ようやくそれをしっかり締め直すことができました。
ところが、6~7日経つと、またトイレのタンクから水が漏れ始めました。仕方なく、修理業者を呼ぶことにしました。調べてもらうと、原因はタンクの排水バルブの老朽化でした。業者が部品を交換し、水漏れは止まりました。
しかし、なんと1日も経たないうちに、再び水が漏れ始め、しかも交換前よりも速いペースで漏れていました。慌てて修理業者に相談すると、「そんなはずはない、絶対にありえない。今日は用事があって行けない」と言われてしまいました。私は呆然としてしまいました。何もわからない上に、子どもの世話もしなければならず、どうしようもなくなって、仕方なく水の元栓を閉めました。
「これは一体どうしたことだろう?」と思いました。しかし、どんなにトラブルが続いても、人を救うことは止められません。「これはおかしい、きっと私の修煉に何か漏れがあるに違いない。でなければ、こんなことは起こらないはずだ」と考えました。
そこで、人を救う道中で同修と交流してみることにしました。1人の同修は「あなたにどんな漏れがあるのか、私にはわからない」と言われました。そこで、別の同修にも聞いてみましたが、やはり似たような答えが返ってきました。
私は3人目の同修を訪ねました。すると、その同修はこう言いました。「あなたにはきっと漏れがあるはずだ、そうでなければ、こんなことは起こらないでしょう。これは間違いなく師父があなたに啓示を与えている。それに、この漏れは小さくないと思う」
私は答えました。「でも、本当に見つからないのです! 私は毎日、子どもと一緒に『轉法輪』を二講ずつ学んでいますし、発正念も一回も欠かさずに行っています。最近は海外向けの発正念も加えて、一日に七、八回は発正念しています。功も毎日欠かさず煉っていますし、人を救うことも続けています。午前と午後、外に出て、一日平均で20人以上に真相を伝えています。
それに、自分の執着心もそれほど強くないと思っています。師父は私をとても厳しく見守ってくださっています。私は普段、足の痛みを感じることはありません。でも、もし間違いを犯したり、法の要求に合わないことをすると、すぐに足が痛くなります。その痛みが出たら、すぐに自分を振り返って間違いを正し、再び坐禅をすると痛みは消えるのです。でも、今回は一体どうしたというのでしょう?」
この同修は親切に私にアドバイスしてくれました。「明慧ネットに掲載されている同修たちの交流文章を参考にして、一つひとつ、細かく丁寧に探してみて。どんなに小さなことも見逃さないように」
私は「わかりました」と答え、電動三輪車に子どもを乗せ、人を救うために出発しました。この日、私は約5キロメートルほど進みながら、真相を伝え、12人に三退を勧めることができました。その後、帰路につきました。
私は電動三輪車を走らせているうちに、ふとあることを思い出しました。私は面子を気にして、人に何か言われるのを恐れていました。だから、自分が携帯電話で小説を読んでいたことを、誰にも言えなかったのです。(もう3年間も読んでいた)
小説を読まなくなった後は、短編ドラマを見るようになり、それも2年以上続きました。そして、去年の年末に神韻の公演を見て、ようやく短編ドラマを完全に見なくなりました。でも、このことを私はずっと隠していました。同修に知られたら、きっと批判されるのではないかと思い、誰にも話せなかったのです。
実は、慈悲深い師父はずっと前から、私に「携帯電話で小説を読むのは危険だ」と気づかせようとしてくださっていました。5年前のことです。携帯電話で小説を読み始めて数カ月が経った頃、ある日、私は子どもと一緒にお風呂に入りました。子どもが先に洗い終わって出ていき、私は浴室を片付けていました。その時、ふと壁にハエがとまっているのを見つけました。私は手に持っていたタオルでそれを叩こうとしました。すると、バランスを崩して思い切り転んでしまい、そのまま気を失ってしまったのです。
意識を取り戻した時、私の右手首はまるで折れたかのように痛み、骨がずれているのがわかりました。私は「これは殺生したための報いなのではないか?」と思い、心の中で師父に向かってこう言いました。「師父、私が間違っていました。殺生してはいけませんでした」
私は浴室から出ると、すぐに子どもを呼び、一緒に煉功して坐禅しました。しかし、坐禅の最中、右手が震えてしまい、その震えをコントロールできませんでした。それでも、私は心の中で繰り返して師父に加持をお願いしました。「師父、私は間違っていました。殺生してはいけませんでした。どうか加持してください。私はどうしても煉功しなければなりません」。私は五式の功法をすべて煉功し、そして、子どもと一緒に『轉法輪』を二講学びました。さらに、師父の講法ビデオを観ました。
その時期、私は小説を読むのをやめました。なぜなら、右手が痛くてスマホをスクロールできなかったからです。しかし、しばらく経つと、痛みが我慢できる程度になり、運転もできるようになりました。すると、また小説を読み始めてしまいました。
私は「小説を読むことは修煉の妨げにはならない」と思い込んでいました。坐禅もしっかりできているし、三つのこともきちんと行っています。だから、自分の行為を気にせず、そのままにしてしまいました。
師父がどれほど私に啓示してくださっても、私は悟ろうとしませんでした。右手が痛くてページをめくれなくなっても、小説を読み続けるために、なんと姪っ子に頼んでページをめくってもらっていました。
今になって思い返すと、本当に恥ずかしく、申し訳ない気持ちでいっぱいです。こんなことをしていて、一体どうやって師父の慈悲なる済度に応えることができるでしょうか? 師父が私たち弟子のためにすべて背負ってくださったことに、私はどう向き合えばよいのでしょうか?
2021年の大晦日、私は集会で「明慧真相年画」を配布していたところ、巡回中の警察官に捕まり、2人の子供と一緒に警察に連行されました。私の姪っ子は泣きながら「見るなと言ったのに、まだ見ているから、邪悪の迫害を受けたんでしょう?」と言いました。私は「私は間違えましたが、どんな執着があっても、彼らに迫害されることは許しません。私は師父がいます」と答えました。そして私は師父に救いを求めました。15分後、師父のご加護の下で、私たちは警察を無事に出ることができました。
この水漏れの出来事を通じて、私は修煉がとても厳粛であり、絶対に邪悪なものを少しでも混ぜてはいけないことを理解しました。同修たちの前でこのことを曝露した後、ここ数年悩まされていた腰の痛みがすぐに治りました。
私が同修に「私はすべての同修の前でこの携帯電話の魔を曝露しなければならない」と言ったとき、突然、腰の痛みが再びひどくなりました。私はその痛みに言いました。「あなたが曝露をさせないようにすればするほど、私は必ず曝露する。なぜなら、私と同じような同修がいるはずだから」。原稿を書いていると、準備していたペンが奇妙に消えてしまい、邪悪がどれほど恐れているかが分かりました。原稿を書き終えたとき、私の腰の痛みは完全に治りました。
以前、私は毎日携帯電話を見ていましたが、煉功するときは眠気もなく、心も静かで、しかし 見るものが脳裏に入りませんでした(邪悪も偽装することがある)。私は年末に神韻公演を観終わったら、もう携帯電話を見ないと決めました。携帯電話への依存を完全に断ち切るためです。この携帯電話の魔は死にたくないようで、私が携帯電話を見ないようにして1週間が過ぎると、夜の夢の中で短編ドラマのような場面が現れました。そのとき、私は正念を発してそれを滅しました。半月後、静功を煉功しているときにも、少しずつその魔が私に戻ってくるように呼び、学法中にも時折現れました。しかし、1カ月後には、すっかり静かになりました。
以上は私の修煉の中でのわずかな悟りであり、もし法に符合していないところがあれば、同修の慈悲深い指摘をお願いいたします。