文/ニュージーランドの大法弟子
【明慧日本2012年4月27日】先日、同修から郵送されてきた明慧の交流文を読みました。怨念の心をなくした体験談で、私はとても良いと思いました。最近の自分ことと合わせて考え、自分の体験を話したいと思います。
中国共産党は歴代の政治運動を発動する時に、いつも一部の人をそそのかして、他の人を打倒させます。それは人々に“恨み”の心を植え付けるのに欠かせない手段です。いろいろな手口を使って、相手をだまして宣伝することは、現在の中国人はみな知っています。植え付けられた良くない観念により次第に、他人の不足のところを自然に軽蔑して、自分をおだて上げるようになります。こうなると修煉者も、自分の気に食わないことに対して怨念を抱えて、咎めるなどの強烈な表現をします。この良くない癖は、同修の間に隔てを作り、衆生を済度することに影響を与えます。それでも注意しなければ、反対に走って修煉できなくなることもあり得ます。怨念の心は修煉者にとって、必ず無くさねばならない執着心だと私は思います。
言うのは簡単ですが、行うのは難しいです。いつも寛容と慈悲の心を持って同修に接するならば、事も順調に運びます。同修が誰かを咎めたり、怨念を抱いたりした時、なぜ自分がこの場面を目撃したのかと自分自身に問わなければなりません。もし自分も同調したり、不自然だと思わなかったならば、それは怨念に対する認識がないのです。私たちが同修のために考え、慈悲の心を持っているならば、法理に基づいて交流すればよいのです。事に対して分析し、一緒に交流し向上するべきです。こうする事こそ同修と自分の修煉に責任を持つ行為です。このようにすると、その怨念の心は存在しなくなります。
私の個人修煉において、以前私は自分の行いが悪くないと思っていました。同修の間で噂話をせず、怨念を持たず、人を傷つけたいと思っていなかったからです。しかし、色々と思い出して、自分のことを考えると、やはり身内の同修と一緒に他人を評論したこがありました。常人の間でのことも、自分の身内だからと思って、主人には愚痴をこぼしたりします。大したことではないかもしれませんが、やはり自分が怨念の心をなくしていない証拠です。また親しい人と一緒にいる時、口を修めることへの注意が足りず、他人の不足や自分の観念と反することを咎めたり、議論したりします。この全ては自分が修めてなくさなければならない事です。一存一念を重んじて、確実に心性を修めることは、真の大法弟子の最も基本的な部分です。
通勤の途中で、私はよく明慧ネットに発表された中国の伝統的な物語を聞いたりします。師父の『洪吟』の中の「古人は誠而(しか)も善(ぜん)、静にして福寿揃う」を一層体験しました。現代人の変異した多くの観念は、自分では気付きませんが、いつの間にか自己を保護し、人を傷つける方向に行ってしまいます。修煉者は「真・善・忍」の基準に基づいて自分を律し、慈悲の心をもっていれば、良くない観念を捨てることができ、怨念の心をなくせると思います。
同修たちよ、同修間の誤解から生じた長期間の怨念、観念を捨てて、慈悲に協力し合うように努力しましょう。真に全体が一つになって、正念を発揮して衆生を済度しましょう。私たちは皆が少し多く自我を放下し、よく他人を思いやれば、私たちの間のその隔てはきっと少しずつ消滅されていきます。全体の向上ができたら、神韻が再度訪れるときに、すべての縁のある人が劇場にやって来ると思います。
薄く浅い体験ですが、慈悲にご指摘をお願いします。最後に、『洪吟二』の「縁結ばれて蓮開く」を書いて、終わりにしたいと思います。
「風流人物今何(いずこ)に在る
大法開壇して相継いで来る
歳月悠々千百度
縁正果を結び衆蓮開く」