【明慧日本2013年4月4日】私は湖南省在住の劉暁明と申します、癌を患って生きる希望を失っていた時、2003年に法輪功と出会いました。法輪功と師父は私に新しい命を与えてくれました。しかし、健康になった私は中共(中国共産党)に迫害され、絶えず拘置所に入れられ、洗脳班に監禁され、また白馬リュウ労働教養所に拘束されています。心身ともに非常に大きいダメージを受けて体が不自由になり、未だに回復の兆しが見られず苦しんでいます。また被害は私一人だけではなく、息子・娘を含めた家族にまで及んでいます。
私は1962年に生まれ、幼い頃から多病でよく眠れない日々をおくっていました。寝ていても息苦しさから時々意識を失ってしまうこともありました。2003年5月、食道癌が見つかり、省の大病院で半年治療を受けましたが回復の見通しは全くありませんでした。アルバイトで貯めた貯金も使いきり、路頭に迷い希望を失い、行く場所も失っていました。重い体を動かして働かないと食べていけない状況でした。子供の学費用に貯蓄をしたかったのですが自分が癌になってしまいました。治療をやめて、死んでも良いから子供のために少しでも貯金しようと決めました。
そんな絶望の中、法輪功の修煉者と出会ったのです。非常に良い人でした。「本気で法輪功を修煉したら病気は治りますよ」と紹介してくれました。しかし、私はマスコミによる法輪功に対するデマや中傷の話、嘘の宣伝を聞いていたので、簡単にその話を信じられませんでした。でも「試してみよう」と思いました。まずは法輪功の本を読むことを約束しました。彼女は私に『轉法輪』という本を貸してくれたのです。私が表紙をめくったら、師父の写真が目に止まりました。非常に優しく、親しく感じられました。本を読み始めると、如何に良い人、最も良い人になれるかについて書かれていました。心性の修煉、道徳の修煉を重んじ『真・善・忍』で自分を修め、良い人にならなければならないとの教えでした。私は今までの人生で自分の運命を憎み、色々な人生の難問を心に抱いていましたが、一回読んだだけで『轉法輪』が全部回答してくれました。また、煉功の動作をしてから僅か数時間で体に反応がありました。下痢をし始め、体が良い方向へ向かっていることを感じるようになったのです。私はその時点で決めました。残りの人生で法輪功を修煉して良い人になり、師父について本当の家に帰りたいと思ったのです。
2005年、私は中南林業科学技術大学の唐先生の家で子供の世話人になりました。9月29日の午後、長沙井湾子の野菜市場で通行人に法輪功の真相を伝え、チラシを配っていました。しかし、公安の湾子(現在の名は雨花亭)派出所に連行され、持っていたお金とチラシを全部没収されました。手錠をかけられ派出所の庭のドアに縛られました。夜中にも関わらず長沙市看守所に移送され迫害を受けました。二人の警官が、監禁されている麻薬常習犯を唆して私に暴力を振るわせました。私は断食し無条件で釈放するように抗議しました。ちょうどその時、私に生理が来ていました。ナプキンが無くて血が足元まで流れました。それでも私をトイレに行かせてくれませんでした。一人の若い男性警官が気の毒がってナプキンを買ってきてくれました。それ以降、二度とこの若い警察の姿を見ることはなくなりました。15日間迫害され、危篤状態に陥ったので釈放されました。私はお金を全部没収されていて、身に何も持っていません。天候は寒くなっていていたのに私は連行された時の薄い服装のままでした。町の人は暖かい服を着ていますが私は薄い夏の服のままでした。足元もサンダルのままでした。服と体は血だらけになっていて非常に汚れていました。私は帰る旅費を稼ぐために物乞いをしました。人々は私を精神状態がおかしくなった人と思っていました。私は町の人に自分は『真・善・忍』を信じて良い人になろうとして中共に連行されこの様子になったと一生懸命説明しました。善良な街の人は果物や飲み物をくれたり旅費に必要な2元をくれたりし、ようやく中南林業科学技術大学の唐先生の家に辿り着きました。唐先生は私が失踪したと思い、親戚や近所などを、色々な所を探してくれていました。
2006年4月、唐先生は私を大学の医務室に案内し健康診断を受けさせました。私が医務室で大法の本を読んでいた時に50歳ぐらいの女医に密告され、大学の警備室、「610弁公室」、及び新開舗派出所の警官によって連行されました。警官は唐先生の説明を聞こうとしないで、唐先生の自宅も不法に家宅捜査をしました。私は今までにアルバイトで貯めていた1000元の現金・大法の書籍・腕時計・MP3プレーヤー・電話カードなどを没収されました。警察は私を無理やり車に押込み長沙 市拘留所に移送しました。二週間後、一年間の労働教養という不当な判決を下して、私は株洲白馬壟(リュウ)労働教養所で迫害を受けました。移送している途中、男性の警官に頭を強く殴られ目から火花が出たように非常に痛い思いをしました。私は「転向」に応じなかったため、賀玉連・唐〇雲・竜利雲・黄俐平らの悪徳警官が麻薬常習犯の劉小玲(長沙の人)、高妹子、周麗艶(衡陽の人)、黄菊梅(邵東の人)、劉小紅らを使い、24時間当番制で私を交代で苦しめました。3回も私に非常に悪質な拷問をし、強制的に転向させようとしました。立ったままの姿勢で連日7~8日間ずっと座らせない、トイレにも行かせない虐待を受けました。その後、足が腫れて歩けなくなりました。
その後、彼らは私を第七区第一隊に移動させ迫害しました。毎日様々な虫や蚊に刺されながら麻薬常習犯から暴力を受けました。彼らが私の頭を殴り目から血が出たこともあります。しかもあざが見つからないよう頭の後部や側面を殴ります。靴下を口に入れて頭を足で蹴る。口の中に雑巾や汚れた靴下を挿し込むから、私は痛くても声を出せません。私の意識がなくなるまで殴り、意識がなくなった私の手を握って用意した法輪功の修煉を放棄する内容の「三書」に指紋を押されました。意識が戻った後、私はこうした行為を強く非難し、直ちに警官の唐璐雲に指紋の押印は無効だという声明文を書いて渡しました。
声明文を出したため、引き続き迫害されました。警官は私に対して様々な虐待を行いました。床に師父の名を書き、私が動いたら踏みつけるようにしました。食事に成分不明の薬物を入れ、食後には体中に痛みを感じて非常に痒くなりました。指より太い木の棒を女性である私の性器に当てて、私が気を失ったら刺すようにしました。長時間非人道的な苦しみを与え、私が完全に意識を失うまで続けました。
2007年に釈放され自宅に戻ると一年前に祖母が亡くなっていたことを知りました。母も2007年の春亡くなっていました。さらに中南林業科学技術大学の唐先生も他界していたことが分かりました。
翌年の08年3月、私は邵東に在住の兄の家に滞在中、『九評共産党』のチラシを配布していた際に連行されました。邵東廉橋派出所の警官は兄の家から私を連行しました。身に持っていた150元と石鹸などを奪って、翌日私を邵東看守所に移送し監禁しました。看守所で私は断食を行い釈放を求めましたが、警察は麻薬常習犯を唆して私に交代で暴力を振るわさせました。二週間迫害してから懲役一年半の冤罪を受け、またも白馬リュウ労働教養所で迫害を受けました。
白馬リュウ労働教養所の第七区第3隊で、麻薬常習犯の彭英・陳聡・李静・呉海第・楊素英・陳輝珍・楊立・鄧知らによってかわるがわる様々な迫害を受けました。
08年11月~09年2月にかけて真冬に日、私の服を全て剥ぎ取り裸の状態で氷の地面に立たせました。体に大法と師父を侮辱する内容の文字を書きました。殴られて目が大きく腫れて開くことができませんでした。口にガムテープを貼られて両手を伸ばして鉄製のベッドにそれぞれ固定して縛り、両足も十字のように縛られ苦しめられました。頭、耳、目から血が流れ出ました。
2009年9月、私は邵東の兄の家に戻りました。その時、邵東廉橋派出所と廉橋郷「610弁公室」は兄の家に侵入して騒ぎたてるなどの嫌がらせをしました。その後、長沙路橋公司で働く弟の家を訪れると、警官が「兄さんが病気で危篤状態」だと嘘を言って私を騙し、4~5名の警官が力づくで私を警察車両に押し込みました。邵陽市洗脳班に移送され十数日間迫害されました。
(注:法輪功修煉者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)