文/中国燕趙地区の大法弟子
【明慧日本2014年4月10日】私は何度か一部の同修が参加した燕趙地区での交流会に参加したことがあります。その中で、一部修煉の要素について、その根源に気づいたので、同修のみなさんと交流したいと思います。
実際、私たちが現在直面している問題は「自分を堅持し、自分を実証し、よく協力できない」ことです。
「自分を堅持する」なかで、人間の一面はあまりはっきり分かっていないかもしれません。この方面において、私は多くの教訓を覚えています。全体的に協力がよくできず、自分を修めなければ、間隔を作ってしまいます。現在、鄭祥星さんを救援するなかで現れた迫害と邪魔はまさにこの問題を語っているのではないでしょうか。ですから、早急に内に向けて探し、自分を修めるべきです。「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[1] これは迫害を解体し、修煉して向上し、人を救う根本的な保障です。
内に向けて探すとは、ただ口でいうだけでなく、着実に修煉しなければなりません。師父がおっしゃったように、「忠」と「義」はしばらく時間をかけて、やっとその内包を充実させることができます。そして人々はやっと「忠義」とは何かを知るようになりました。ならば、全体的に協力する面で、どうすれば着実に修めることができるでしょうか? 師父は「真の向上は放棄すること」[2]と説かれました。つまり、私たちは自分に執着するという、人間のものを捨てなければなりません。
明慧ネットにはこのような例がいくつか掲載されました。ある同修は大法を中傷する宣伝ボードを目にして、それを撤去しようと思い、いろいろと考えました。現れた恐怖心を取り去り、最終的には正念が主導となり、実際に行動しようと思って現場に行くと、その宣伝ボードはすでになくなっていました。
私にもこのような体験がありました。あることについて、本当に心を込め、心性が要求された所まで至った時に、実際そのことはすでに変化し、私がやる前に、すでに完成していたのです。
もし私たちが法を正す師父に手伝いたければ、三つのことをしっかり行い、度胸がある人になるべきです。このように努力して修めるべきです。すなわち、同修のいかなるマイナスの表れにも心を動かされず、すべての生命のすばらしい一面だけを見ることです。自分にマイナスな考えが浮かんだら、直ちにそれをつかんで解体します。外に向けてみることは、人間の致命的な弱点であり、品格が劣っている現れです。内に向けて探すことこそ、修煉であり、神にまで成就することができます。
法を正す時期の大法弟子の修煉を、古人はやったことがなく、将来の人もやらないのですが、真相を伝える時、数分間に二言三言で一人の常人を救う大法弟子がいれば、一念で悪いことをする人を固定して、悪いことができないようにさせることができる大法弟子もいます。これは真に特殊な歴史時期の修煉における特殊な力です。
しかし、触れることも、見ることもできない、「心を修め、内に向けて探す」ことについて、同修たちは往々にして重視しません。修煉の本当に偉大さは見ることも、触ることもできない部分、つまり心にあります。だから、自分のすべての考えに気を付けるべきです。一瞬に浮かんできた考えをつかみ取り、正か邪か、善か悪か、人間の念か神の念かをはっきりさせることができ、悪いことをよいこととして見ることができるか、自分を傷つけた人に感謝することができるか、自分の敵を愛することができるかどうかにあります。
私たちは心を静めて学法することを重視しています。煉功する際にいかに心を静められるかを重視します。真相を伝え人を救い済度することを重視します。しかし、着実に自分を修煉することについては、往々にしておろそかにしがちです。実際、これこそ本当に人間から神に向かう道のりなのです。実際、同修の間でよく協力できず、トラブルがあった時は、それこそ、このような努力が足りないことの証ではないでしょうか?
最後、に師父の説法をもって、互いに励まし合いたいと思います。師父は次のように説かれました。「大法弟子はいかなることを行なうときでも、困難にぶつかり、その解決策を考えるとき、必ず自分の方から探して、大法弟子と法を正すことに必要な環境の状態に順応すべきです。問題が現れたら、それは自分が法理からねじれてしまったからです。問題の所在を探し、ねじれている部分を解きほぐし、問題を整理して解決します。最も良い方法は、問題に出遭ったら、前へ前へと突っ込んではならず、追い詰めて解決を求めてはならず、心を放下し、一歩下がって問題を解決すべきです。(拍手)問題があったら、すぐにあなたが正しいのか、私が正しいのか、これはあなたの問題で、あれは彼の問題で、私は如何に行なったかと責め合い、見た目では問題を解決しているかのように見えますが、実はまったく違います。見た目では理性的に見えますが、実はちっとも理性的ではなく、一歩下がって、心を完全に放下して問題を考えていません。冷静に、穏やかにトラブルから抜け出して、トラブルを見れば、はじめて本当に解決することができます。
いかなる問題に遭っても、このようにすることができれば、少なくともあなたは問題を解決する道を見つけることができます。そうでなければ、どのように解決するのでしょうか? 突っ張った状態で、解決したいと思えば思うほど解決できません。実はあなたはその心をずっと放下できず、突っ張っていて、どうしても誰が是か、誰が非かを究明したいと思い、自分に間違いがあっても、相手の間違いを探し出そうとしています。それでは、問題を解決することができません」[3]
不足の部分は法に基づいて正していきましょう。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法七』「米国首都法会での説法」