「2014年世界法輪大法デーの投稿募集」の原稿を書く過程で感じたこと
文/陜西省の大法弟子
【明慧日本2014年5月25日】今年の「世界法輪大法デーの投稿募集要項」が発表された当日、私は入念に読みました。「2年前に発表された自らの投稿文章で、書くべきことを全て書きました。『三つのこと』をしっかり行い、精進している同修に比べれば、まだまだ差が大きくて、とてもよく修めているとは言えない自分に対して、不満すら抱いているのに、何をもって師父に報告し、同修と交流するのでしょうか?」と心の中で思いながら、初めから投稿する気はありませんでした。
同修から明慧ネットに寄せられた数多くの修煉体験を毎日読み、また身近にいる同修からの勧めもあって、投稿しないのは大法弟子の責務を果たしていないのではないかと、次第に意識し始めました。師父は大法弟子の風貌を披露する舞台を用意してくださっているのに、ぐずぐずして舞台に上がろうとしないで、私は師父の真の弟子と言えるでしょうか? そして、今年も投稿しようと考えを改めました。
しかし、何を書けばよいかと2日間迷って、ついに断片的な修煉体験が頭の片隅に思い浮びました。何とかなるだろうとの思いでペンを執りました。日頃の修煉がしっかりできていないと自覚しており、全く文章に期待していませんでした。
思いも寄らないことに、書き出すとすらすらとペンが進み、止まりませんでした。家族と身近にあった修煉体験だけで一気に七つも書きあげ、もう規定の3千文字になろうとしていることに気づいて、仕方なくペンを置きました。まだまだ書きたいことが目白押しで意を尽くせていません。
今回、私は原稿を書くことから大変感銘を受けました。これだけ伝えたいことがあったのに、どうしてずっと書けないと思っていたのでしょう? 些細な出来事に過ぎないかもしれません。生死に関わるとか、天地を震撼するような大きな出来事ではないかもしれません。しかし、それはいずれも佛光に普く照らされて、キラキラと光っている金の粒です。まるで一滴の雫のように、どんどん集まれば海になります。それは人類社会における大法の限りない威力の現れです。師父は限りなく偉大なる佛法の威力を私達に授けてくださいました。大法弟子としてはその光彩を放たたなければなりません。私達の生命が佛光に照らされ、そして、救い済度を待っている衆生の将来の道を照らします。尻込みする理由はどこにもありません。投稿の意義は大法弟子の風貌を見せるだけでなく、法を広め、法を実証し、最も重要なのは師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度することにあります。
私は突然悟りました。「自らの良い修煉状態を実証できれば書き、さもなければ何も書けない、もしくは書かない」と、投稿は自己を実証することだと思っていました。それは実に恐ろしい観念です! 師父は私達に無私無我の「正覚」にまで修めるようにと要求されていますが、しかし、投稿という大切な法を実証することに対して、自ら深刻な私心を抱いていることに気づきました。今後、自己修煉における遅れを取り戻すよう、奮い立って追いかけなければなりません。
仮に「書く材料がない」という一念が現れた当初、それをしっかり捉え、深く根を掘って取り除いていたら、原稿を書くのに今日まで時間がかからなかったでしょう。自らの全ての念を修めなければなりません。今回は駆け込み投稿でも書く決意を固めさせてくださった明慧ネットに、また自らの体験を寄せた同修達に感謝いたします。熱心に勧めてくださった身辺の同修達に感謝いたします。真正面から困難に臨む貴重な機会を与えてくださいました。
私と同じように考えている同修がいたら一刻も早くペンを執り、原稿を書くようにと心から願っています。海の波になれなくても、一滴の雫だってこの上なく光栄なことです。私達はキラキラ光っている大法の粒子ではないでしょうか? 書くことがないということはありえません。投稿したいという一念だけで、自らの修煉において光り輝く金の粒が目の前に浮かぶように、師父が加持してくださいます。投稿をもって師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度し、自らの威徳を樹立します。佛法によって鍛錬された大法の粒子が、佛光の下で輝かないはずがありません。
以上、応募原稿を書く過程での私の些細な感想です。不適切なところがありましたら慈悲なるご叱正をお願いいたします。