文/河北省の大法弟子
【明慧日本2014年11月7日】ある日、私が授業を終え、教室から出ようとしたところ、2人の男の子が殴り合いを始めました。クラスの他の生徒たちは2人を囲んで大声で騒ぎ立て、「頑張って!」と応援していました。私は直ちに喧嘩をやめさせ、彼らを事務室に連れて行きました。
私は彼らにどうして喧嘩したのか聞きました。彼らは互いに相手が如何に悪いかと文句を言い、すべて相手の間違いだと言いました。それを聞き、私は怒ってしまいました。私は彼らに「相手のことを見ないで、自分が何を間違っているかを考えてみなさい」と言いました。その瞬間、私は突然、自分がどうして怒っているのか? 自分はどうして人には自分の間違いを探すように言いながら、自分自身に問題がないかを真面目に考えてみないのかと意識しました。一切のことは偶然ではありません。ちょうど私達、現地の同修の間でもトラブルがあり、互いに文句を言い合って、まさにこの2人の生徒と同じように互いに非難していました。
しばらくして、私は彼らに再度「自分が何を間違っているかわかっていますか」と聞きました。彼らは2人とも「分かりました」と答えてくれました。2人とも自分がこうすべきではなかった、ああすべきではなかったと言いましたが、いずれも表面的な小さな問題で、根本的、実質的な間違いについては掘り出していませんでした。彼らはただ表面的に私に対処しようとしており、私に彼らのトラブルに手を出してほしくなく、教室に戻してほしかっただけでした。
私は彼らに「先生がまだ教室を離れないうちに、先生の前で殴り合いをはじめたよね。あなた達の目の前に先生の存在はあるのか」と叱りました。言い終わって私は直ちに認識できました。師父はいつも私達の身辺におられるのに、時に私達の振る舞いは確かに修煉者らしくなく、場合によっては師父の写真の前で、同修の間で激しい言葉使いをし、声高に自分のために弁解したり、相手を非難したり、文句を言い合い、ひいては怒って、そこを立ち去りました。
私はまた先ほど2人の子供が喧嘩していた時のシチュエーションを思い出しました。彼らは本当に必死に戦うのではなく、象徴的に殴りあっていました。しかし、他の子供たちはかえって彼らを囲み、興奮して声高に「殴れ! 早く殴れ!」と叫んでいました。彼らはどちらかを助けようとするのではなく、ただその2人の殴り合いが賑やかであればあるほど喜んでいるようでした。もし、周りで見ていた子どもたちが騒いだり喚いたりしなければ、彼らはそれほど大騒ぎをして殴り合わなかったかもしれず、それほど怒らなかったかもしれません。当時、彼らが殴り合いを止めようとすれば、それほど難しくはなかったのかも知れません。
周りで見ていた子どもたちの現れは私を大いに驚かせました。2人が喧嘩しているのに、やめさせるのではなく、かえって騒ぎ立て、彼らが更に賑やかに喧嘩するようにさせていました。私はいままでこういう場面を見たことがありませんでした。
私はその2人を諭しました。彼らも自分の間違いを認識できました。私が彼らに握手をさせると、彼らは笑いながら教室に戻りました。
私は引き続き、このことについて考えてみました。どうしてこのことに出遭ったのか? 必ず私自身に問題があり、私が自分に向けて探し、心性を向上させる必要があるのです。毎度私達の同修の間でトラブルが起きた時、旧勢力は必死に私達の間に隔たりを作り、私達をあざ笑い、騒ぎたて、喚きたてて、絶えず私達の人心と執着を拡大しているのです。私達がいつも相手を間違っていると思い、師父の法理をもって、他人を測り、常に相手を変えようとし、内に向けて自分の不足を探すことを忘れていました。旧勢力は私たちが乱れないことを恐れ、私達が一体をなさなければなさないほど、彼らは喜びます。しかし、最も心を痛めておられるのは師父なのです!
恥ずかしいことに、私自身も長年修煉しましたが、毎回生徒のよくない現れをみる度に、彼らを叱るだけで、それを鏡として自分を探しませんでした。今日になってやっと、私たちはみな自我を放下し、無条件にうちに向けて探し、絶えず自分の人心と観念、執着を取り除いて、確固たる一体をなし、三つのことをしっかり行うべきだと意識できました。これこそ、師父が私達に求められていることです。
最後に師父の『洪吟三』「誰が是誰が非」を再び学びたいと思います。
「修煉する人
自らの過ちを探し
各種の人心取り去ること多し
大なる関小なる関、落さんと想ふべからず
正しきは彼
過ちは私
何を争ふものか」[1]
慈悲深い師父の悟らせに感謝致します!
注:
[1] 李洪志師父の詩: 『洪吟三』「誰が是誰が非」