明慧法会|苦難の中、初心をもって修煉する事を心に誓う(一)
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 文/遼寧省の大法弟子 慧心

 【明慧日本2015年5月16日】

 慈悲で偉大なる師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は18年もの間、師父の慈悲な済度とご加護の中で修煉してきました。冤罪事件による迫害を12年間受けていたため、師父が中国大陸の大法弟子のために始められたこの特別な法会に、今まで参加する機会がありませんでした。出獄して1年以上が過ぎ、これまでの長かった自分の修煉体験と悟りをまとめる事がようやくできるようになったので、慈悲で偉大なる師父にご報告し、同修と交流したいと思います。

 「法輪バッジ」が私に修煉を始めさせ、私に学法させ法を伝えさせた

 私は黒竜江省の国境付近にある古い町で生まれました。高校は卒業しておらず、私は佛門に帰依して居士になったのですが、この町に1993年から今までずっと住んでいます。

 1996年7月、友達の美容院の中で、私は家主のおじいちゃんが持っていた「バッジ」に興味を持ちました。おじいさんは私に「これは『法輪バッジ』で、法輪功のマークがついています。あなたも学んでみませんか」と言いました。「私は佛家の修煉を探しているんです」と私は言いました。すると「法輪功は佛家の修練です」とおじいさんは言いました。

 そのおじいちゃん、おばあちゃん夫婦はともに法輪功を学んでおり、『轉法輪』という貴重な書籍を私のために下さいました。この本を読み終わった時、「この本こそ、私が輪廻転生の中で探し求めていた本だ」と私は知りました。次に私は師父の9日間説法のビデオ講習会に参加し、その時から私には本物の師父がいらっしゃるようになり、本当の大法弟子となったのです。

 法輪大法の修煉はまず良い人間になる事から始め、私は自らの思想と行為を正しました。その頃は周りに誰も知人がいないこの町で、私は生活のために仕方なくナイトクラブでお金を稼ぎました。私はタバコを吸わず、酒も飲みませんでしたが、あのような雑多な人がぜいたくで享楽的な生活を送っている場では、良い人間になりたいと思っても、そうなるのは本当に難しいものでした。『修める者の忌』という経文の中で「金銭に執着するならば、財を求めて偽って修め、教を壊し、法を壊し、一生を空しく過ごして、佛を修めてはいないのです」[1]と師父が説かれているのを見た時、私は驚きました。「今、私が働いているこの業界は常人の世界の中で道徳的に堕落した後の産物だ」という事を悟ったのです。私は別の仕事を探しました。それから大法が私の心を浄化してくださり、私は俗世間の煩わしい事から目覚め、もう物事の成り行きに従ったりはしませんでした。

 修煉を始めると、私は絶えず集団学法に参加し、毎日早朝に公園に行って煉功し、しばらくすると、私の家に学法グループも立ち上げました。夫も修煉を始め、私たちが法を伝える中で、あたりの隣人で修煉を始めた人は少なくはありませんでした。その後、また新たに別の煉功場を家の近くで設立しました。いくら暑くても、いくら寒くても、雨が降ろうが風が吹こうが、私たちは朝、ラジカセを提げ、「法輪大法」の横断幕を持って煉功場に着くと、みんなと一緒に煉功し、新しい修練者がいれば動作を教えました。遠い故郷に住んでいる両親、舅と姑、長女と義弟はみな大法の修煉を始めました。

 職場では、私はある専門店のマネージャーになりました。私が大法によって自分に厳しく要求しており、欲深くなく、優位に立ちたがらないのを見て、店の人はみな私を信用し、私に給与の計算を任せました(この店では一人一人毎月の業績によって歩合が決まる)。私は毎日学法し、暗記した法を念じ、体と心は佛法の中に溶け込んでいました。そして日が暮れて道に迷った子供が家に帰る道を見つけた時のように、喜び、歩く時も足取りも軽く、私は法会に参加したり、また広場での集団大煉功に参加していました。その頃は、この町のすべての公園、空き地、団地、または道端にも、至る所に大小の煉功場があり、「法輪大法」の横断幕、法輪旗、街角に貼られた法輪功の紹介ポスターなどの一つ一つがこの町の最も良い風景を形成していました。

 多くの血が流れる中 北京へ行き法を実証する

 しかし、突然一夜にして全てが急に変わり、黒い雲が太陽を隠し、1999年7月20日の朝、私たちは多くの輔導員が夜間に捕まった事を知りました。そこで、みんなは市政府へ陳情に行きました。広場には大量の警官が集まってきており、さらに特殊警察部隊もいました。警官たちは陳情に来た人を捕まえ、殴り、私たちをどこかの学校に無理やり連れ込み、詳細に住所を記録しました。突然多くの血が流され、あらゆるメディアが法輪功に対する虚言を、猛吹雪が天地を覆い隠すかのように、昼夜を問わず、速報で伝えていました。悪魔のような江沢民の嫉妬のため引き起こされた、法輪功に対するこの世のものとも思えぬ悲惨な迫害により、億を下らない人数の良い人間が、政府に歯向かう者と見なされました。その迫害の手段の残忍さ、行為の恐ろしさ、方法の非情さは、まるで天が落ちてきたかのような勢いであり、私たちを取り巻く空気でさえ、みな邪悪な勢いで充満しているかのようで、息が詰まるようでした。

 7月22日、師父が中傷と指名手配を受けているのを見て、私は北京へ行く事にしました。その時、北京へ行くすべての路線は封鎖され、各関所では厳しい取り調べをしていました。空港のターミナルビルで、私は何人かの同修が捕まえられているのを見ましたが、私は順調に搭乗しました。その時、私は生まれて初めて飛行機に乗りましたが、高い空から直下に見下ろす夜景を鑑賞するような気持ちはありませんでした。

 その年の北京の7月の温度は、最高で40度以上にもなりましたが、天安門広場とその付近の地下道は、大法弟子でいっぱいでした。私は大衆浴場や地下室アパートに住み、機会をつかんでは、地方の同修と切磋琢磨して交流しました。「法が正せないので帰らない!」と、ある同修は言いました。警察、私服警官、スパイ、パトカーが北京の広場、大通りと路地裏など、至る所におり、雰囲気は陰鬱で、恐怖を伴っていました。私たちは毎日天安門広場でうろちょろしているだけで、何もできませんでした。3日後、私は家に帰りました。職場の人はみな、私を理解してくれ、特に店長は自分から私に替って3日間働いてくれ、さらに、私のために大法書籍を保護してくれたのです。

 ある日、Wさんという同修が、中国大陸の修煉者たちが広州で法会を開いた時の発表原稿を何部か持ってきました。その中の一編の文章が強く私を震撼させました。その文章を読んで私は「ここで法を実証するために出て行かなかったら、その時点で私は大法弟子ではない」。また「この時、大法は誹謗中傷され、師父は虚言をまかれ、悪辣な攻撃を受けているので、大法弟子として、もう家で学法しているわけにはいかず、法を実証しに出て行く事、これが大法弟子の唯一の選択だ」という事がわかりました。私は職場へ辞表を出しに行きました。社長と店長は私を何度も引き止めましたが、私の意思が変わらないので「あなたが一人で行っても役に立ちません。私たちもお役に立てるよう、みな、あなたと一緒に行きます」と言いました。私は「『真心をこめてやれば、金石といえども切り開くことができる』、私は必ず行きます」と言いました。

 2000年2月、私と夫は再び北京へ行って法を実証する道につきました。私たち2人は金水橋で煉功して捕まりました。10数日後、私は自由の身になりましたが、夫は不当に労働教養を受けました。その年の5月、私はまた同修と北京へ行って横断幕を張り、「法輪大法は宇宙の真理」と書かれた3メートルの長さの横断幕を金水橋で広げ、また捕まりました。

 私は地区の麻薬中毒患者の治療所へ不当に拘束されたので、私たちは集団で断食し、迫害に反対しました。「生きて求める所無く 死して留まるを惜しまず 妄念を蕩尽すれば 佛を修するは難しからず」[1]という師父の法を私は覚えていました。自分が法の中に溶け込んでいる事を私は感じ、もう生死さえも求めず、師父の保護の下で、断食をして12日で自由を獲得しました。その年の10月、私はまた北京へ行きました。今度の方が行った同修が多く、夜、北京の同修の家の中で捕まりましたが、それから師父の保護の下で、再び自由の身になったのです。

 北京へ行って法を実証する中で、私と夫は何度も捕まり、私たち夫婦は離れ離れになって14年経ちますが、現在も夫はまだ獄中で不当に拘束されています。

 (続く)

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「無存」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/9/299617.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/11/15/146871.html)
 
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