明慧法会|家々で三退を勧め 家々で真言を聞く(一)
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文/中国の大法弟子 郷蓮口述 同修整理

 【明慧日本2015年7月18日】今年私は77歳になり、大法の修煉を始めてもう10数年になりました。地元の同修たちと一緒に、師が法を正す事を手伝い、衆生を救い済度し、県の700余りの田舎町をほとんど歩いて家々で三退を勧め、「法輪大法は素晴らしい」ことを広めました。大事なことは師父と法を信じる事です。それぞれの修煉の経歴はすべて師父の広大な佛恩を実証しています。

 ここで、当県の修煉者たちが衆生を救い済度した経緯を書いて、この神聖なインターネット交流法会に献上します。地区の同修と地方の衆生の代表として、師父の私たちに対する救い済度に深く感謝いたします。

 都市と農村のほとんどの家庭に真相を伝え

 迫害が始まった初期に、当県の若い同修たちはみな迫害に遭ったので、私たちには真相の資料がありませんでした。衆生はみな中国共産党に毒害され、大法を敵視したので、私は家で気がもめました。ある同修が行政機関所在地から1枚のチラシをもらってきました。私は宝物を得たかのように嬉しくなり、あちこちコピー会社を探しましたが、どこもコピーをしてくれませんでした。なぜなら、どのコピー会社もみな中国共産党からの脅迫を受けていたのです。それならと、私たちはペンで書き写し、その後に、同修がプリンターを買ってきました。

 当時、邪悪は魔の手をあらゆる職場に伸ばし、あらゆる職場から何人かの人を選び出して、すべての町、すべての小路に配置して24時間張り込みました。ほとんどの所にみな、職場と個人の担当がありました。大法弟子が夜に真相資料を配ると、常に尾行されるか強引に連行されました。

 その時、私たちはビラを配って人々に真相を伝えました。私は農村で配りました。当時、地方に行く同修は少なく、同行する同修がいない時は、私は1人で行きましたが、私の足は以前リューマチを患ったために、ひざが変形して歩くことが困難なため、疲れてしまいました。2人の同修は私が苦労しているのを見て、私に家で同修たちのために資料を折らせて、同修たちが自転車に乗って真相資料を配りに行きました。寒い冬は一晩中何十キロもの道を走りました。夜の5時過ぎから走り始めて朝の7時過ぎに帰ってきましたが、しばらくすると、同修たちは地方で警察に連行されてしまいました。そこで私はまた引き続き真相資料を配りました。

 ある時、私は遠い場所へ行き、バスを降りて一晩中歩きました。「ここは有名な悪の巣窟で、夜1人で勝手に出かける事はできない」という村人の話を聞きました。私の足は良くないので、夜が明けた時は、両足は疲れて曲がらなくなりました。ある村で遠い親戚の家を見つけ、親戚は私の靴を脱がせて、休ませてくれました。

 その後、私は同修を探して一緒に、夜に行ったり日中に行ったりしました。出発前に私たちは先に地図を見て、バスがない所は、タクシーを使うしかなく、毎回100元余りかかりましたが、私たちはお金を無駄遣いせず、全部人を救うために使いました。この年齢の私にとって、農村へ行き遠い道のりを歩くのは苦労でした。村と村は時には7、8里もあり、すべて歩かなければならず、場合によっては、帰って来ると疲れて立っていられなくなり、道端に横になってバスを待ちました。ある時、私と80歳を過ぎた老年の同修は真相資料を一晩中配り、何十キロも歩いたので、次の日の朝、疲れて動けなくなりました。

 冬は寒くて体中が凍え、時には足がむくんで肉刺(まめ)ができました。夏は30度以上になり、でこぼこ道を歩くと、顔は水で洗ったように汗が一筋一筋流れました。このような時、「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[1]と、私たちは暗唱しました。こんなに苦労したのですが、心の中はやはり嬉しかったのでした。

 2001年1月のある日、11人の修煉者が輪タクで農村へ行き真相資料を配ったところ、警察のパトロール隊に拘束されました。県公安局の政治委員は20数人の警官を引率し、各種の残虐な刑を用いて私たちを苦しめました。夜になって疲れると、警官たちは酒のつまみを持ってきて、飲み食いしながら私たちを殴りました。何人かの若い同修は吊し上げられて殴られ、腰掛を足の甲に押し当られ、きりで穴をあけられ、細いひもできつく縛られ、すごい勢いで箒で頭を叩かれました。若い女性同修は殴られて吐血し、「力を入れて! 力を入れて!」と、公安局の政治委員はひっきりなしにはやし立てました。政治委員はそれでも他の警官のやり方が甘いと不満で、革靴で同修の指をめちゃくちゃに踏みつけました。その時、私たちはみんな資料の出所がわかっていましたが、誰も邪悪に屈服した者はおらず、同修を売る者は1人もいなかったのです。なぜなら、当時の唯一の資料拠点は、私たち同修が必死の覚悟で設立したもので、それは私たちが衆生を救い済度する保障であり、私たちの生命より貴重である事を知っていたからです。たとえ叩き殺されても資料の出所は言いませんでした。

 私たちは夜8時半から、翌日の早朝5時過ぎまでずっと、警官に拷問にかけられました。警官は殴られて動かなくなった幾人かの男性同修を担架に乗せて留置場に運びました。7日後、公安局の政治委員は全身に傷を負った6人の男性同修を労働教養所へ連行して迫害し、その中の1人の男性同修はその後、亡くなりました。何人かのお年寄りの女性同修は別々に拘束された数日後、家族が迎えに来ました。同修たちはあの魔難の中でさえ正念を持って正しく行ったばかりでなく、当県の修煉者は毎回迫害に遭う中で、同修を売る者は1人もいませんでした。

 2001年に、その地区で出て来られる若い同修たちのほとんど全員が拘束されて迫害され、残ったのは老婦人だけでしたが、私たちは邪悪に負けないで、すぐに冷静になり、必ず人々に真相をわかってもらいたいと、全体で協力して資料を配ったので、邪悪のネット封鎖は根本から影響がなくなりました。

 2002年になり、私たちは発正念を重視するようになりました。毎回真相資料を配りに出かける前に、私たちはみな、先に高密度の発正念を行い、時間を決めて全員が出発し、帰ってきたらまた高密度に発正念を行い、邪悪の妨害を阻止しました。このような協力を2005年までずっと続けました。私たちの地域ではすでに多くの同修が真相伝えに出て行き、いくつかの学法グループもその姿を取り戻しました。悪は覗き見を重ねて、私たちの学法グループを破壊しようとしたのですが、私たちの地元の学法拠点はここ数年一度も妨害されたことがありません。交流を通して、「集団学法は師父が私たちに教えられた修煉の形式で、正しく歩みさえすれば、誰も私たちを動かすことはできないのだ」と思いました。

 2005年5月のある日、地元の同修たちがまた大規模な迫害を受けました。その時は地元に一団の警察が投入され、街全体が捜査され、資料拠点が破壊され、私と他の7人の同修が連行され、2人の同修が不当に労働教養処分を受けました。その時迫害に対して大多数の修煉者が受けた恐怖の影は長く続き、真相を広範囲に伝える事もできず、チラシは街の中にしか配ることができませんでした。

 2007年になり、壁を乗り越えて邪悪を除去し、地元の形勢を挽回するために、同修たちは交流をしました。他の地区の同修の励ましの下で、全体で協力する事を重視し、師父の法を正す進展に着いて行くべきだと気づきました。そこで私たちは『共産党についての九つの論評』、チラシ、パンフレット、真相DVDを一軒も残さずに都市と農村のすべての家に配る事にしました。

 以前はわずかに配っていただけでしたが、今回、このように体系的に行おうと考えたために、私たちの前に現れたのは困難な事だらけでした。学法の保障、資料拠点の展開、消耗材の運搬、資金、協調、さらに農村行きの車、さらに落ちこぼれた同修の応援、さらに外部からのいろいろな妨害の排除、家庭の魔難の突破など、いつも一歩一歩前へ進み、一つ一つの困難を解決するにはかなりの困難があり、同修の苦しい努力と協力が必要でした。これらの事はみな、私たちが学法していく中で生じた正念が必要でした。そのため、私たちは学法を最重要な事とみなしました。

 その年、私たちが8カ月余りをかけてようやくこの壮挙を成し遂げた時、「大きな工程をやり終えた」と、ある同修は感慨深げに言いました。同修たちの間には少しのわだかまりもなく、みな自ら協力して円容し、プロジェクトの中で役割を果たしました。その後の法の実証と各プロジェクトの協調に対してしっかりした基礎を固め、良い経験を積み重ねました。その後、2009年の冬と2013年の夏に、一部の同修に加わってもらう必要があっただけで、2カ月でそのプロジェクトをもう一度行う事ができただけでなく、神韻DVDもみんな直接配るようになりました。

 この道を出て農村へ行き、直接衆生を救った

 2004年を皮切りに、私たちは直接衆生に真相を伝え、三退を勧めるようになりました。私は毎日、通りで真相を伝えました。直接真相を伝える同修がどんどん増えて、駅、商店街、市街区でほとんど毎日同修の姿を見る事ができました。私と幾人かの同修は2組に分かれて街の平屋建ての家が集まる地区のほとんどの家庭を一通り真相を伝えて回りました。

 街で真相を伝える事が多かったのですが、私は農村へ行って真相を伝えたいと思いました。なぜなら農村はチラシの形式ではダメで、三退の問題を解決できなかったのです。多くの貧しい農民は、字が読めないだけでなく、DVDを見る条件もなく、ある人は10数年も引きこもっており、真相に触れることは難しかったのです。しかし、この事を言いだすと、ある同修はやはり心配し、とても危険で実現不可能だ、なぜならチラシを配るだけでも村の悪人によく連行される事があり、一つの村に真相を伝え終えるには、数時間から数日かかるので、すぐにその場を離れる事ができなかったからです。2003年に、私たちの地域の女性同修が農村に行って真相を伝えた時に強制連行され、後に迫害されて亡くなりました。

 けれども、農村には真相を聞く事ができない多くの人がいました。農村の人たちは先祖代々、田舎で貧しい日々を過ごして、中国共産党の残酷な搾取に遭っていました。大法の真相を聞くことを待っているのではありませんか? 「真相を伝え衆生を救い済度することに旧勢力はあえて反対できません。肝心なのは、何かをするときの心構えにそれらに付け入る隙を与えないようにすることです」[2]と、師父は説かれました。そこで私は思い切りました。捨て身になるしかないと! このことを成し遂げようと決めました。

 ある日、ようやく私は1人の年配の同修と一緒に農村へ出て行きました。それは三退を勧める一歩でした。私たちは各自が真相資料、お守り、チラシ、DVD、パンフレットを背負い、三退を勧めた後に、その人に合う資料があればあげられるように準備を整えました。しかし、始めたばかりの時は経験がなかったために、真相を伝えるのが遅かったのです。300軒余りの大きな村で、私たち2人は5日間真相を伝えましたが、最後に1人の悪人に誣告され、警察が私たち2人を強制連行し、留置場に拘禁しましたが、2人は留置場で真相を伝え、発正念し、外にいる同修は協力して邪悪を暴露したので、半月後、私たちは留置場を出ることができました。私たち2人は内に向けて探し、自分の焦りが突出し、一日中焦り、「人が多すぎて真相を伝えることができない」と思い、善の念が足りなかった事を見つけ、同修も執着のある自己心を見つけました。人が三退しないので、同修は「三退してください」と叫んで、他の人の反感を招いてしまいました。さらに、「おばあさん、あなたはこんな事をして、誰かがあなたを留置場へ送り込む事を恐れないのですか?」と、何人かの人が同修に聞きました。「私は5回留置場に入りました。! 公安局に私は出たり入ったりしているんです!」と、同修は言いました。この話の説明が少し大げさだったので、邪悪に隙を突かれました。

 帰ってから、私たち2人は心の準備をして、また農村へ行って真相を伝え続け、さらに80歳を過ぎた女性の同修ともう一人の女性の同修も私たちの「農村行き」に加わりました。私たちは2組に分かれて真相を伝え、一軒残らず、家の入口があれば入って行きました。一つの地方をできる限り早く行うために、私たちは正午も腰をかけて休まず、ご飯も食べませんでした。

 ある地方の村民は邪悪の毒害が重く、ある田舎町では、私と同修たちは今までにそこで3回連行され、悪人に5回嫌がらせを受けました。80歳を過ぎた老年の同修は一度、一人の青年に乱暴に打たれてけがをしました。後に、私たちの地域の同修たちが全体で協力して発正念をした結果、その地域に善を勧める手紙を書き、真相チラシを送り、事前に準備を整えてから、私たちは真相を伝え続けました。このように、50数カ所の村を、私たちは合わせて3カ月余りで、幾多の困難を乗り越えて、ついにそこで真相を伝え終えました。

 2009年になり、地方の同修が私たちの情況を知った後、その同修のすべての貯蓄を出して、車を買いました。地元の同修はいろいろな圧力をはねのけ、車の運転をマスターしました。この車があったので、人を救う効率は倍に上がりました。当時、当県にはすでに8人の同修が農村行きに参加しており、私たちは4組に分かれ、毎日、数百人に三退を勧める事ができたのです。

 (続く)

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 [2] 李洪志師父の経文:『各地での説法二』「二〇〇二年ボストン法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/11/299605.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/11/12/146822.html)
 
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