文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年7月18日】ここ一年で、私は多くの心の衝突に出会いましたが、心境を清らかにしてから、境地の昇華と向上を得られました。修煉者にとって、清らかな心を持つのは、ますます神に近づいたということです。この事について、これから自分の体得を話したいと思います。
不純な心が修煉の妨げになる
私は法を正す中で一分一秒を大事にし、多くの時間と精力を、師父が要求されている三つのことに費やしてきました。一方、自分はまだ大法の要求には達しておらず、よくできている同修と比べるとまだまだだと感じていました。ある時期、私は煉功も発正念も、雑念にひどく妨害され、心身とも疲れていて、いくら頑張っても心性の昇華した後の美妙を感じることができませんでした。特にこの一年で発生したたくさんの出来事は、いつも自分の心性を刺激し、表面的には怒らなくなったのですが、心の中では耐え忍んでおり、真の忍の状態に達しているとは言えませんでした。ひいては常人の口内炎の症状が現れ、歯と喉が痛くなりました。
私はこれは正しい状態ではないと思い、内に向けて隠れている人心と執着を探し、周りの同修と交流し、自分の修煉の中の不足を指摘してくれるようにお願いしました。しかし、同修からみると、私は毎日人を救うプロジェクトで忙しくしており、休む時間は少なく、よく修めているのではないかと思われていました。しかしこなした仕事の量をもって修煉状態をはかる事はできません。よく法を勉強し、自分をよく修めたうえで人を救ってこそ、法を正す時期の大法弟子の精進している状態です。
内に向けて探すと、多くの清らかではない人心が見つかりました。常人の中で形成した引っ込み思案な観念や、完璧を追及する心によって、目的に達成できなくなってしまったり、自分がある事をよくできなかったことに気付き、また同修が背後で自分について議論するのを聞いた時、落ち込んでしまい、落ち着かなくなることがあります。あるいは仕事中、同修に厳しく要求し、ミスを許さない、自我を強調する頑固な人心も見つかりました。これらの人心によって自分はいつも緊張し、焦りがちになり、心の状態は穏やかではありませんでした。
私はいかなる清らかでない心も修煉の妨げであると認識しました。それから、多く法を勉強し、人心と観念を取り除き、絶えず法に則って、自分を清めました。すると徐々に軽やかに感じるようになって、仕事も順調になりました。
心が純粋な状態で真相資料を編集する
ここ数年、私は邪悪の迫害を暴露し、同修を救助する中で、ある程度の経験を積んできて、自分には強大な力があり、直接ほかの空間の邪悪要素を解体できると感じました。世間においては、つまりそれらの事は適時に邪悪を暴露し続けたり、同修を救助できた事などに現れました。
それから、私は明慧週刊と明慧特報などを編集することになりました。最初の頃は、編集する時、自分は最も神聖な事を行っていると思い、心はとても純粋でした。しかし、しばらく経つと、編集の作業は自分が毎週必ず完成させなければならない任務のようになり、最初の頃の神聖な状態がなくなりました。心が正しくなければ、明慧ネットに週刊を送る時、ネットの妨害が現れたり、さもなければ、うまく送信できないか、時に数時間をかけてやっと送り出すこともあり、ひいては明慧ネットに採用されなかったこともあります。
ある日、私は真相週刊を編集している時に、同修がやってきて、そばに座ると、同修の不足を言い始め、自分も時々応対しました。そして週刊の編集を終え、送信すると、ネットの状態は明らかにいつものような順調な状態ではなくなりました。私は直ちに同修にもう同修の是非を議論してはならない、さもなければ、この真相週刊まで不純の要素を帯びてしまうと伝えました。結局、この週刊を送信する事には、とても時間がかかってしまって、しかも採用されなかったのです。そのような事から、私はますます自分の心の状態を重視するようになり、必ず純粋な状態で人を救う事を行うように注意するようにしています。
去年、私がいる省の全体の真相定期刊行物は、一度休刊しました。1カ月後になっても、発行できず、私は明慧ネットと連絡を取って、自ら編集の仕事を担当しました。私は心を込めて現地と省の真相定期刊行物を作り、重複せず漏れもせず、異なる真相資料にそれぞれ違う真相内容を使い、同修たちの配布に間に合うように、いつも時間内に完成させました。
しかし気付かないうちに、省の週刊を編集する時、また私は心を込めなくなってしまい、してもしなくても関係ないという心の状態が現れました。初めの頃は、明慧ネットに発表される度、私はいつもそれらをダウンロードしては、どこが変更されたか? 次回から注意するように毎回チェックしていたのですが、そのうちに最初の頃の真剣さがなくなってしまいました。この時、ある同修が続けて2週間分の省の週刊を編集して、明慧ネットで発表しました。それを見て私はショックを受けました。師父は自分にこの仕事をやらせて下さらないと思い、意気消沈しました。
自分が引き続き編集するか? 同修に譲って編集してもらうか? について、私の心は揺れ動いていました。自分には一定の書く能力があり、この仕事をこなせる充分な時間もあると思うと、やはり自分が編集を行うべきだと一方的に決めていましたが、編集した週刊はなかなか送信できませんでした。
この送信している間、最初は心が落ち着かず、この仕事をしないと、自分が何かを失ってしまうようでした。この仕事は自分が一番ふさわしく、私には他の同修にはない能力があると思いました。しかし心が乱れれば乱れるほど送信できません。そのうち徐々に私は、自分が人心でこの仕事に対処していたことを意識しました。大法の仕事は誰が行っても同じであり、誰にも能力はあるのではないかと思いました。
私は繰り返し師父の説法「皆さん、ご存知ですか? あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそが、最も重要だからです。真にこのように向上することができるのであれば、皆さんが純粋で浄らかな心の状態の下で行なうことこそ、最も良いことで、最も神聖なのです」[1]を暗記しました。
私は本当に根本から認識を正し、心の状態を純粋で清らかにしました。そうすると週刊を送信できました。
同修の指摘に直面し、自分の不足を探す
心性がなかなか向上できない同修がいて、いつでも明慧ネットの交流文章を読むことができ、心性の向上の助けになるので、私は彼女にパソコンの購入を勧めました。私は彼女とパソコンを買いに行き、技術同修を呼んでソフトをインストールしてあげました。ある日、彼女が尋ねに来ると、私を怒鳴りつけました。彼女はあの技術の同修は安全に配慮せず、責任感がないと指摘し、最後には私に「私の道は師父が按配して下さる、私の道はあなたが按配することではない」と言いました。それを聞いた私は、彼女と衝突しないように自分の気持ちを抑えました。
同修はしばらく文句を言っていましたが、だんだん自分が間違っていると感じて、最後に私に謝りました。彼女の態度が急に変わったので、かえって私は動じてしまい、「今日はここまでで、明日話をしましょう」と言いました。
この件の後、私は心性に力を入れて、純粋な心で修煉の中で出会う事に対処することにしました。
心の状態が純粋であれば力を発揮することができ、修煉をしっかりすることを通じて、心性は高まり、協調もますますできるようになりました。
次元が限られており、不適当なところがあれば、指摘願います。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「再認識」