明慧法会|史前の大願を果たすために 北京で真相を伝えた体験(二)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年8月5日】

 二、師父と法を信じ 大法を実証する

 1999年7月、中国共産党は狂ったように法輪大法を迫害し、私たちの地区の交番の指導員と警察官が私たち夫婦を監視しました。(長男と嫁は地方でアルバイトをしており、私たちが孫の世話をしていた)。警察は私たちが外に出る事を許さず、用事がある時は交番に申請して出かけましたが、煉功はさせてもらえず、警察が大法の関連書籍を探し、毎日妨害をしました。2000年4月、私たちは密かにビルを売り、ビルを売ったお金を持って北京へ行き、小さな平屋建ての家を借り、娘と同修は一緒に部屋を借りて資料を作りました。私と夫はいつも大きい袋を担いで街中を歩き回って横断幕を掛け、法輪功が迫害されている真相の標語を貼り付けました。私たちは何度も天安門に行って大法を実証しましたが、師父のご加護の下、無事に家に帰りました。

 忘れもしない2001年10月1日、私は夫と娘、孫と天安門へ大法を実証しに行きました。多くの資料を担ぎ、服のポケットにはシールを詰め込み、西長安街に沿ってたくさんの資料とシールを配りました。その中には江沢民の醜い写真もあり、天安門までの道で配りました。路上でパトカーと警察のバイクが歩道に停まっており、5人の警官がいて、2人が車の下で修理をしており、3人がその横で話をしていました。私と孫は警察のバイクに「法輪大法是正法(法輪大法は正法です)」と書かれたシールを貼りました。金水橋まで来ると、地方からアルバイトに来た人たちと観光客が座って休んでおり、娘は1人1人に大法の資料と江沢民の醜い写真を配ると、受け取る人も受け取らない人もいました。

 その時、警官は至る所におり、ある警官は私服で、2、3歩に1人くらいの割合でいましたが、「平気です。持って帰って見てください」と、娘が観光客に言うと、観光客は急いでかばんにしまいました。私たちは天安門広場に向かいながら、旗のポール、監視カメラのポール、石の腰掛けの上、広告板、草地のライトに、「法轮大法好(法輪大法は素晴らしい)」「真善忍好(真善忍は素晴らしい)」「还我师父清白(私の師父は無罪です)」と書かれたシールを貼りました。シールは黄色地に赤い字で、とても鮮やかでした。それから、「江泽民是迫害法轮大法的凶手(江沢民は法輪大法を迫害した凶悪犯です)」と書かれた白地に黒い字のシールを貼りました。私たちが資料を配るのを、警官はまったく見えていないようで、すべての資料を配り終えて家に帰りました。帰る時は別々に帰ると、来る時に決めていました。

 家に着いて車を降りると、夫が私たちを待っていたので、「あなたはどうして家に入らずにここで私たちを待っていたの」と言うと、「鍵を失くした」と、言いました。夫は広場の近くで真相標語を貼っていました。(前門は交番の目の前だったが、その時は知らなかった)。後ろのパトカーから2人の警官が下りて来て、すぐに夫をパトカーに乗せ、夫は残った資料をパトカーのシートの隙間に押し込みましたが、誤って鍵も押し込んでしまったと話しました。パトカーは前門の交番に入って行き、夫を部屋に入れました。その部屋は法輪功修煉者でいっぱいでした。ある者はすでに丸1日押し込められており、ある者は叫んでおり、ある者は何も話さず、ある者は警官に理を説いていました。「どこから来た? 退職金はいらないっていうわけだな?」と、警官が夫に聞きました。2、3の質問をした後、背の高い警官がやって来て、何も言わずに夫の両耳を殴りましたが、夫は動かず、少しも痛くなく、その警官を見ることもしませんでした。

 しかし、その警官は拳を握って掌でもみました。どうやらその殴った警官の方が痛かったようで、面子がなくなり、元の部屋へ戻って行きました。しばらくしてから、「ここは私がいる場所ではない」と、夫は考え、「私は家に帰らなければなりません」と、師父にご加持をお願いしました。交番の入口は長机と3人の警官で遮られており、門には銃を持った4人の警官がいましたが、夫は師父のご加護の下、警官の目の前で交番を走り出て、広場に駆け込みましたが、私たちが見つからないので、1人で家に帰ってきました。後で知ったのですが、10月1日前後に中国共産党は天安門で多くの修煉者を捕まえました。

 北京にいた数年間、共産党の迫害で捕まったりして、私たちは20数回も引っ越し、豊台区、大興区、崇文区、朝陽区、昌平区などに住みました。夫と息子、娘は労働教養所で迫害を受け、私も洗脳班に入れられたこともありますが、帰って来ると住む場所がなく、中国共産党は「誰であろうと法輪功修煉者に部屋を貸したものは家を没収し、罰金を科す」と、規定したので、大家は恐れてしまい、なかなか部屋を貸してくれなかったのです。ある時などは、家を探され、捕まりそうになったので、私たちは荷物も服もお金も持たずに飛び出したことが2回もありました。

 私たちは平屋建ての家を借りたり、ビルを借りたり、地下室を借りたりしましたが、2人の孫がいたので、生活が困難で、時には家賃さえ準備できませんでした。しかし、どんなに苦しく疲れても、心の中には法があり、師父がおられたので、心はいつも慰められました。2人の孫は「法轮大法好(法輪大法は素晴らしい)」「真善忍好(真善忍は素晴らしい)」という標語を白抜き文字で書き、それを切り取って別の紙に貼り、一文字一文字違う色を使って、下側には「六岁大法小弟子(6歳の大法子供弟子)」と書き、孫たちとおじいさんは一緒に立体交差橋の橋脚や橋梁、学校の門などに貼りました、その中には長い間ずっと貼られていたものもありました。

 ある日の晩、私と娘は資料を配りに行きました。この時、夫と息子は労働教養所で迫害を受けていました。私と娘、それに2人の孫だけが家にいました。私たちは集合住宅のビルごとに資料を配り、順調に一抱えの資料を配り終えました。この時、歓喜心が出てきたために、家に帰ってからまた一抱えの資料を持ちだし、出かける時、頭をぶつけて大きなこぶができました。これは「もう行ってはいけない」と師父が悟らせようとなさっていたにもかかわらず、私は悟らず、団地に行き、上の階から下に向かって資料を配り始め、3階まで来た時、老婦人が資料に気づき、「早く捕まえて! 法輪功よ!」と、大声で叫びました。上から下まですべての住民が出て来て、私たち2人を取り囲んだので、私たちは法輪功が迫害されている真相を伝えましたが、「この人たちを捕まえて交番へ連れて行って!」と、老婦人はなおさら叫びました。

 この時、老婦人の息子らしい男性が帰ってきて、「あなたたちは法輪功を学んでいるんですか?」と聞きました。「そうです」と、答えると、「この資料はあなたたちが配ったのですか? 国は修煉する事を認めていないが、あなたたちは知らないのですか? それならやはり通報しなければならない」と言いました。「法輪大法は正法です。政府が法輪功を迫害するのは間違っています。私たちの師父は良い人で、真善忍に基づいて私たちを良い人にしてくれます。あなたたちが資料をよく見てくれれば、真相がわかるはずです」と、娘は言いました。この時、その男性はすでに110のボタンを押して、「私が通話ボタンを押せば、5分で警察が来るぞ」と、言いました。それでも、私たちの心は平静で、恐れる心がなく、威厳と善良なまなざしでその男性を見ながら続けて真相を伝えると、その男性は携帯電話から手を放し、「あなたたちは良い人だ。行きなさい!」と、言いました。

 私たちが家に帰ると、すでに夜の10時を過ぎており、2人の孫はまだ垂れ幕を作りながら私たちが帰るのを待っていました。考えてみると、もし私たちが家に帰らなかったら、この6歳の子供はどうなってしまうのでしょうか? 師父はまた私たちを保護してくださいました。師父に感謝いたします。大法に感謝いたします。師父と法を信じ、正しい念で正しい行いをしさえすれば、師父は私たちの事を考えてくださいます。

 三、三つの事を行い 師父と共に家に帰る

 北京ではいつも引越しをしていたために、孫は何度も転校し、それぞれの学校で賛助費を納めなければならなかったので、時には1年、半年と停学しなければなりませんでした。2007年、私と夫は孫を連れて東北地方の別の町に戻りました。孫が学校に通うためには不動産の権利書と戸籍が必要なので、戸籍を移すために生まれた土地に何度も行きましたが、以前の土地から戸籍を移すのは難しく、新しい土地で戸籍を受け取るのはさらに難しかったので、私と夫は直接真相を伝えようと決めました。

 交番の所長、指導員、副所長、また、610弁公室の主任は私たちの話を記録しましたが、私たちはその人たちの質問を遮り、「私たちは市民ですから、戸籍を受け取る権利があります。国の法律は信仰の自由と言論の自由を規定しており、法律には法輪功が邪教だという規定はなく、師父の大法書籍の中にも政府に反対する言葉はなく、大法は正法です。全世界の百あまりの国で法輪功が学ばれていますが、これは法輪功が正法であることを証明しています」とその人たちに真相を伝えました。

 天安門焼身自殺は嘘であると話し、貴州省の「蔵字石」に「中国共产党亡(中国共産党は滅びる)」の大きな6文字があり、これは天が中国共産党を滅ぼす事を表している事を話しました。「私はたくさんの修煉者と話したが、あなたたちはみな良い人です」と、610弁公室の主任は言いました。「ありがとうございます。あなたたちは良い人たちです。再会の時がまたありますように。あと半年したら私は退職するので、退職したら法輪功を学びます。その時になったら、誰か私に三退を勧めてくれるでしょうか!」と、所長は両手の拳を胸の前で合わせながら言いました。「それなら三退しましょう。三退すれば平安が保たれますよ」と私は言いました。

 2008年、北京でオリンピックが開かれ、長男は捕まった北京からこの地区に戻され、洗脳班で迫害されました。私たちはその事を知った後、長男の引き渡しを求めましたが、だめでした。私と夫は政法委員会の書記に会い、再び610弁公室の主任に会い、最後に法輪功への迫害を主導した市区委員会の副書記を探し当て、副書記に長男の引き渡しを求めました。真相を伝えましたが、副書記は聞こうとしないばかりか、怒り出し、立ち上がって右手を高く上げ、机を叩いて私たちを脅そうとしましたが、私たちは恐れず、正当な道理をふまえて厳しく、威厳をもって、「私の息子は何の法に触れたのですか? あなただって庶民の息子でしょう。もし何年も家に帰らず、家の前まで来たのに両親を見舞えないとなったら、あなたはどう思いますか?」と、慈悲深く話しました。

 副書記は手を下しはしましたが、話をしませんでした。「私たちは公正明大に活動しており、殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないようにと師父は私たち修煉者に教えており、何をするにしても人のことをまず考えるようにしています。どこが間違っていますか? 国がオリンピックを開催するのは、人々の体の健康のためだと思います。それと法輪功と何の関係があるのですか。どうして法輪功を恐れるのですか? どうしてこんなに良い人たちを恐れるのですか? 政府が法輪功を迫害する事は完全に間違っています」と、30分以上話したところ、「あす、あなたの息子を家に帰す」と、副書記は言いました。

 次の日、交番の指導員と団地の書記が車で私たちを家まで送り届け、「以後、何かあったら何でも言ってください」と言いました。衆生は真相がわかり救われた、と私たちは感じ、心がとても落ち着きました。「念を正しくすれば 悪はじぐに崩る」[4]と、師父は説かれましたが、正念が強大であれば、何も私たちを押しとどめる事はできません。

 2007年、家を構えた後、その地区の協調人が私に会いに来て、「あなたの家では2人とも修煉していて条件が揃っている」と言い、私が資料を作る事になりました。資料拠点は「いたるところで素晴らしい展開ぶりを見せています」[5]と師父は言われました。私はあまり教養がなく、パソコンにも触ったことがないので、北京で娘が資料を作り、私はただ製本、整理、分類、包装などの補助的な仕事をしました。私はパソコンもプリンターも使えませんでしたが、資料作りの仕事を請け負ったのでした。次の日、パソコンとプリンターが設置され、技術担当の同修がパソコンのスイッチの入れ方と切り方、ダウンロード、プリントの仕方を私に教えましたが、目がくらんで覚えられず、メモを取りましたがだめでした。頭の中が空っぽになってしまい、次の週までに週刊をプリントしなければならないのに、すべて忘れてしまいました。

 技術担当の同修は仕事で忙しいのですが、時間を見つけて私に教えに来てくれ、私は少し覚えましたが、すぐ忘れてしまいました。孫はその時12歳で、孫もパソコンを動かした事はありませんでしたが、技術担当の同修が私に教えているのを見て、孫は理解し、一つ一つ私に教えてくれました。私と孫はインターネット、ダウンロード、プリントをマスターし、孫はプリンターのトナーの補給もできるようになり、さらに、ピンインと文字入力を私に教えてくれました。現在、私は三退名簿を打てるようになりました。文章は打つ事ができず、速度がとても遅いので、師父が私のそばに子供弟子を按排してくださいました。孫は私の資料作りを手伝い、衆生を救い済度し、美しい小さな花を咲かせ、威徳を樹立しました。私は法が世の中を正すまで資料を作り続けようと決心しました。

 私の初めての投稿ですが、涙を流しながら書き終えました、法に即していないところがあれば、同修の皆さんの慈悲深いご指摘をお願いします。

 師父、ありがとうございます。

 同修の皆さん、ありがとうございます。

 合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』

 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「真修」

 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 [4] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「何を恐れる」

 [5] 李洪志師父の著作:『2003年元宵節での説法』

 (明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/11/12/282147.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/11/25/143376.html)
 
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