文史の放談:古代のチベットの吐蕃王朝の滅亡の原因
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文/翟敬

 【明慧日本2015年11月3日】1400年前、ソンツェン・ガンポ王が文成公主と結婚するために、唐の太宗のもとへ求婚の使者を送った時、チベットの吐蕃王朝は新興の強大な王朝だった。しかし、この王朝は地震、山崩れ、水の逆流、ペストの流行で突然姿を消した。

 吐蕃が国を創ったのと同時に、佛法がチベットに広まった。ソンツェン・ガンポ王以降の歴代吐蕃王は佛法を強力に支持した。ソンツェン・ガンポ王はチベットの有名な大昭寺、ポタラ宮を造ったが、後に王位を捨て出家して修行した。国王や王子も次々に出家していった。佛法がチベットで広まるに従って、吐蕃王朝の国力も日に日に盛大になった。

 唐の太宗が亡くなった後、吐蕃の支配地域は青海、甘粛、四川などに拡張していき、長安を一時占領したこともあった。唐の軍は吐蕃軍を防御できなかった。唐高宗、唐粛宗、唐憲宗の各時期に、唐と吐蕃の戦争があったが、吐蕃を消滅できなかった。

 しかし、勢力が盛んだった吐蕃王朝は、突然衰弱して滅亡した。これはなにが原因なのか?

『新唐書・吐蕃下』に後期の吐蕃王についてこのように記載されている。「贊普(吐蕃王の名称)……死,以弟‘達磨’嗣。‘達磨’嗜酒,好畋獵,喜內,且兇愎少恩。政益亂」

 原因はこれです。古い国王が死んだ後、弟ランダルマ王(『新唐書・吐蕃下』に書かれている達磨)が即位する。唐の使者が残した記録によると、彼は酒におぼれる乱暴者というだけではなく、誰の意見も耳に入らない人で、チベットの歴史ではじめて廃佛運動を行い、国家の滅亡を招いた人物だということです。

 ランダルマ王は佛法に対する迫害を始めた。彼は僧侶を拘束し、まるで獣を狩るような殺生を強要した。生かすか殺すかは信仰を放棄するかどうかを基準とした。信仰を放棄したくない人をすべて殺害した。寺院と佛殿は全部閉じられた。大昭寺が屠畜場に、小昭寺が牛舎に変えられた。寺院における貴重な文物の壁画を塗りつぶして、僧侶が酒を飲む絵に変えられた。その結果、修煉者への誹謗中傷が行われた。また佛像にくぎを打って川に投げ落とした。人を派遣して縄で仏像の首を結んだ。縄を結んだ人は間もなく血を吐いて死亡した。

『新唐書』はランダルマ王の廃佛運動の後、吐蕃国のこういう状態を記載している:開成四年(紀元839年),……自是國中地震裂,水泉湧,岷山崩。

 即ち、国内で地震があった。岷山の山脈(現在の甘粛、四川の境界内)が山崩れし、洮水が逆流するなど異常な現象が現われた。またペストの流行で、大勢の人が病死したが、死体が多過ぎて積み重ねた。鄯州(現在の青海楽都県)と廓州(現在の青海省貴徳県)では夜に太鼓の音が聞こえても誰も現われなかったという不思議な事件もあった。

 廃佛運動を行ったランダルマ王は即位して数年後に暗殺されて亡くなった。しかし継承者がいなかった。そのため吐蕃王朝は滅びた。王朝を滅ぼしたのは唐ではなく、自国の愚かな国王だった。しかし、佛陀を尊敬し、信仰するのはチベット族の伝統になってずっと続けられている。外部の圧力がいくら強くても、チベット族のこの特性は変えられない。

『新唐書』より

(作者訳:本文の作者は常人です。大法弟子は「不二法門」に従ってください。)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/3/31/306926.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/4/12/149695.html)
 
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