旧宇宙から根こそぎにする
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 【明慧日本2015年11月14日】修煉は最後の段階となりました。今回の西部の法会で、師父は非常に厳しく説法されました。多くの同修は説法を読み、恐慌(訳注:きょうこうとは、恐れ、あわてること)状態に陥り、焦り出しました。甚だしきに至っては法会の説法を聞き、自分はもう追いつくことが出来ないと判断しました。修煉して円満成就できる望みがないと思い込み、修煉を断念した法輪功学習者もいました。実はこのような行動は、修煉の目的が純粋でなかったため、引き起こされたものだと思います。これは法から何かを得て、自分さえ成就出来ればよいという考えの表れです。ゆえに、自分が成就できるか否かのみを心配してしまうのです。真に自我を放下し、全ては「機」に従って動き、ただ単に師父の教えに従い、心性を高めて素直に師父の按排に従い、平常心をもって三つの事を行えば、個人の円満成就を度外視すると変わっていたのではないでしょうか。

 それでは、私が目にした状況と悟った事を書き出して、参考にしていただければと思います。

一、低次元の基準を盾にして包み隠さず、旧宇宙から根こそぎにする

 師父は私たちにこのように話されました。「異なる次元には異なる法があり、その次元においては指導作用がある」また、師父が「どの次元にも法があります。どれも宇宙の絶対的真理ではない。しかも高い次元の法ほど宇宙の特性に近いのです」「1」と話されていました。師父も「人が修煉の過程の中で、ある次元のことを評価の基準にするのは正しくないのです」「2」と仰っていました。

 修煉の中で、非常に人を惑わす落とし穴があります。それはある次元の基準を絶対的基準として見なし、師父に教わった「法には定法無し」の法理を忘れることです。そうなると、非常に頑丈な障壁が立ちはだかり、深層にある執着を覆いかぶしてしまいます。内に向けて探すことが出来ず、自分をある一つの次元に留め、長期にわたり突破することができません。

 例えば、全ての執着と欲望の根本は「私」であり、すべては「私」という基礎の上で建てられいます。「私」には異なる次元に異なる表れ、異なる基準があります。三界に接近している宇宙次元では、「私」の表れは名や利を求める様々な欲望です。ある同修は、人を救い済度する時に、厳寒、酷暑を問わず、命が奪われる危険を冒して進み、精を尽くし、名や利を求めず、ひたすら尽くして、とても立派に行っていました。ゆえに、自分のその極めて大きな奉仕、名利を求めない状態を基準にしてしまいます。自分は無私で、標準に達しているのだと思い込み、自己満足して、巨大な覆いが出来てしまいます。深層にある執着に覆いをかぶせ、もっと高い次元に突破することができません。、

 もしこの覆いを外し、自分の全てを放下し尽くして見れば、名や利を求めず、ひたすら精を尽くし、真相を伝えていましたが、しかし、もっと高い次元から見て、それも個人の円満成就を求める執着なのです。自分の果位の高さや、その円満できた世界の範囲の大きさに執着していることになるので、即ち、それはもっと高次元の「私」なのです。

 低次元ではこれは人並な事ですが、高次元になりますと、これは一つ莫大な漏れ、巨大な執着であり、非常に汚れていて変異したものなのです。この執着を取り除かなければ、次の次元へ突破することが難しく、ずっとある次元の中で、回り道ばかりしている事になると思います。

 それと同様に、ある同修は真相を伝える時に、名利を求めず、個人の円満成就や果位の次元の高さも求めず、無私の境地に達しているように見えます。しかし、もっと深く掘って見れば、もっと深くにある心、すなわち真相を伝えることを良く行えたことを通じて、自分の将来の世界がもっと美しく、自分の世界にいる衆生がもっと幸せになれるという心を見つけることが出来ます。

 低い次元ではこれは「私」とは言えませんが、もっと、もっと高次元から見れば、やはり変異した汚れた「私」なのです。自分の世界のためであり、衆生を平等に扱うことが出来ず、ただ対象となる衆生の範囲が広がって、この「私」の表れがもっと純粋になっただけなのです、しかし範囲がいくら広がっていても限りがあります。いくら純粋でも変異したものなのです。もう一歩前へ踏み出して、この「私」を放下して、自我を無くし尽くし、如何なる考えも留保せず、如何なる差別も無くせば、より高い境地の「無私」に達します。

 この心の中にある「自我」こそ、私たちがこの旧宇宙に下ろした根っこなのです、「無私」の境地に達してこそ、初めてこの根を旧宇宙から抜き放ち、完全に旧勢力の按排から脱け出して、師父が按排された道を歩んでいると言えます。

 さもなければ、この根っこは旧宇宙から抜け出せず、どんなに良く行なっても、輝かしい成果を得ていても、依然、旧勢力の道を歩み、旧勢力の支配のもとで無駄足を踏み、最終的に、行き詰ってしまうことになります。修煉は厳粛なことであり、自分を騙すような行為は許されません。

 他の執着心も皆同じです、それぞれの執着心は生命の源、本質の中に根があります。その根こそ旧宇宙に下ろした根っこなのです。旧勢力に操られている糸なのです。

(続き)

注:
[1] 李洪志师父著作『轉法輪
[2] 李洪志师父著作『法轮大法義解』「長春法輪大法補導員のための説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/11/9/318873.html)
 
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