心を静めて学法したとき、不思議な体験をした
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 【明慧日本2015年12月17日】心を静めて『轉法輪』を学ぶ時、本の中ではまるで一層一層の門が開き、私は行間から師父がおっしゃるミクロの世界に入ることを体験しました。この間、本を開けば、違う次元の法理が点、線、面の形となって現れ、深夜に学法する時、眠くなっても法理が現れ続けました。これは一時の状態ですが、その後、この感覚は弱くなったものの、学法の状態はますます良くなってきました。

 1999年以前の『スイス法会での説法』の中で師父はこう説かれています。「皆さんが修煉して向上できるもの、修煉の中で得ることのできるものを全て法に詰め込んだと私はいつもこのように言っています。皆さんは異なった境地にいますが、誰もこの話の重みを本当に理解することができません。修煉さえすれば、何でも得られます。皆さんが得たものに私のものがどのくらい入っているのかご存知でしょうか?」 師父のこのお話を思い出すたびに涙が流れました。本の中に、師父はどれだけの心血を注がれたのでしょう! 長年の学法の中で、本を開けば眠くなる状態が続き、または求める心を持って学法したりして、大法にどれぐらい同化できたのでしょうか? 師父と大法に対し、咎めを感じました。

 大法の玄妙を体験する

 今年の春、10数年来の心を静めて学法出来ない状態を突破しようと思い、求める心を放下し、真に学法し悟りを得たいと『轉法輪』を読み始めました。読み出してまもなく、私は冷や汗をかきました。普段、あれだけ熟読した本の内容はまるで初めて見たようで、白紙状態から学法しているような感じでした。例えていえば、大学入試を目前にして、私はまだ小学校の知識もよく分かっていないような焦りを感じました。読めば読むほど質問が出てきて、しまいには自分の分かっているものはわずかしかないことに気付きました。

 そして読めば読むほど、本の中の文字や文章、記号の一つ一つが生命であって、エネルギーがあることに気付きました。体は強大なエネルギーに包まれ、思惟も固定され、一度に一文字しか見えず、一文字一文字と目線を横に移動させることしか出来ず、雑念がなくなって、初めて入静の感覚を覚えました。

 本を読んでいるうちに、突然一行の文字がピカッと光って、文面の意思が変わりました。本の中の文字は全く変わっていませんが、私は別の意味を読み取ることができました。

 ある日、早朝の発正念を終えて『轉法輪』を開きました。本の中で、師父は例を挙げて一つの出来事を述べておられました。しかし、ずっと前から良く知っていたその段落の表面の意味は、なぜか別の全く関連性のない意味に読み取ることができました。文字は何一つ変わらないまま、意味は完全に変わりました。しかも、私はその段落を読む前から既に段落の大体の内容を知っていて、別の意味として読み取った内容に沿って文を読んでいくと、別の法理が分かってきました。びっくりした私は一旦本を読むことを止めました。その思惟は悟りから、または考え抜くことから得たものではなく、完全に外部から打ち込まれたもので、本の中の佛、道、神が悟らせて下さったものなのか、あるいは別の信息なのかは良く分かりませんでした。あまりにも突然の事ですので、一時的に師父のおっしゃる「気功態」になりました。『轉法輪』の中の小さな物語一つだけでも私に指導作用があるのに、普段、自分と無関係だと思われる師父の説法内容も、必ず必要な時、必要な状態下で指導作用を働くことが分かりました。

 ときには、思惟が爆発するような感じを受けた後、法理が数秒間の内に連鎖的に分かるようになりました。たとえば、あることをどうすべきか、またはそれが法に則っているかどうかを考えた途端、師父の説法が次々と脳裏に現れ、しかもすべてが『轉法輪』の中の師父の本来のお話そのままでした。それらの説法は全部、私が考えていたことを指導できます。また、そのうちの一つの説法だけを深く理解していくと、それがまた多くのことを指導できることが分かりました。

 この間、明慧への投稿を書いている途中、師父が微笑んで私をみておられたのが見えました。確か、右目の目じり辺りですが、師父が黄金色の服を着て私に微笑んでおられたのが見えました。私に「真に」学法したいという一念が生じたとき、それが各次元の法の要求に符合したので、私への励ましとして師父が上記のようなさまざまな状態を体験させて下さったと思います。

 大法によって智慧が開く

 その後、私の頭の一部が開いたような感じで、法を悟る功能が強くなり、思惟が活発に動き、視野も広くなりました。法の中の文字、単語、事、物の全てが平面的で、孤立した概念ではなく、多次元で立体的に現れてくるようになりました。思惟方式も変わり、物事を考える際、違う角度、違う次元から同時に考え、同時に反映されるようになりました。

 大法により正しくない状態が正される

 その後の数カ月間、私は真に心を静め、入学したばかりの小学生のつもりで学法に取り組みました。徐々に学法の際は眠くなくなり、発正念の時は手を立てばすぐに入定できるようになり、体が消えて思惟しか残っていない状態もたびたび体験しました。

 以前、座禅の時、知らずのうちに体は前や後ろに傾いていたり、発正念の際は手を顔の真ん前に持ってきたりしましたが、今は煉功の姿勢が正しくなり、時には目や表情には彫刻の仏像のような「神態」さえ見受けられました。「智慧を垂りて世間を看」(『洪吟三』「抱輪」) この「智慧を垂りて」には「神態」が含まれると個人的に思っています。私が故意にそのようにしたわけではありませんでした。

 以前、多くの良くない心はいくら頑張っても取り除くことができませんでしたが、学法の状態が良くなってから自然に薄れていきました。しかも深く隠されていた、察し難い執着心も容易に見つかり、取り除くことができました。以前は何かをした後に自己評価をする習慣がありました。たとえば衆生が救われたとき、私は衆生の為に喜びを感じ、それが正常な思惟だと思っていました。しかし、ある日、自分の思惟がもっと簡単になったことに気づきました。言い換えれば、その自己評価の部分がなくなって、何かを行った後は思惟が空になっていました。その自己評価は情から派生したもので、一種の自己陶酔であり、すべきことではないことに気づきました。深く考えていくと、事後の喜怒哀楽という一念は後天的に形成されたもので、正常な思惟に付着している余計なものです。学法を通じて、それが法によって取り除かれました。

 また、心を静めて学法するようになってからこんな現象もありました。それは、何かを思うと、それがすぐに現れてきます。たとえば、何かを見ようとネットを開くと、それと関連する文章がすぐに出てきます。最初は偶然だと思って、ただただ不思議に思いましたが、その後、似たような体験はますます多くなってきました。その時やっとわかったのですが、修煉の中において偶然はなく、真に法に則っていればどんな不思議もありえます。私の人間の観念も次々と大法によって取り除かれました。

 全ては師父が下さったもの

 修煉の中で、絶えず悟らなければなりませんが、何かの法理について更に分かり、向上しようとしたとき、目の前に自分の向上にぴったりの階段が現れたりします。最初は喜び(執着心)を感じ、どうしてこんなに簡単にできたのかと思いました。『轉法輪』の中で師父はこうおっしゃいました。「『修は己にありて、功は師にあり』なのですから、あなたにそういう願望があれば充分です。本当にこのことをやってくれるのは師で、あなたにはとてもそういう力はありません」 実は、全ては師父が下さったもので、師父が五千年の悠久な文化を切り開いて下さったことによって私達に天に戻れる道がありました。

 これらのことが分かってから、「天の功を貪る」自分に恥を感じました。五千年の文化を通じて、私は師父の法を正す道の難しさと雄大さが分かり、大法弟子としての責任の重大さも実感しました。

 学法は向上のもと

 一部の同修は法をいくら読んでも常に同じ意味だと言いますが、それは一つの次元に長く留まり過ぎていると私は思います。真に心を静めて法を読めば、必ず質問にぶつかり、それを解明すれば向上につながります。法に則って向上すれば発正念の状態は自然に良くなり、真相を伝える効果も良くなります。法に則って向上すれば心の容量が大きくなり、自分自身が強大になるにつれて魔難も小さく感じるようになって、容易に乗り越えることができます。そして、各種の人心や察しがたい執着心も簡単に見つけるようになります。

 法に則って向上する過程は、師父や大法に対し感性的認識から理性的な認識に昇華していく過程だと思います。その昇華の過程で、師父にますます近づき、大法についての認識がますますはっきりとなり、自分を良く修め、師父が求められていることを成就することこそが、師父へのもっとも良い恩返しだと思います。

 以上は半年以来の学法の体験談ですが、妥当ではない部分があれば、同修のご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/12/16/266623.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/12/25/136781.html)
 
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