【明慧日本2015年2月16日】師父は『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』で再び発正念、及び着実に修めることについて言及されました。ここで、この二つの問題について、自分の修煉体験をもって同修の皆さんと交流したいと思います。
一、学法は発正念の代わりにはなれず、妨害を排除するよう発正念を重視すべき
『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』の中で、師父は大法弟子が修煉に対し消極的、怠惰になっている問題について次のようにおっしゃいました。「細微で良くない多くの生命がほこりのようにあなたを覆っており、人間の考えを覆っていますが、それは何者でもなく、正念を発すればこれらの卑しいものを消滅することができます」[1]
長い間、私の修煉状態は良くありませんでした。怠けてしまいどうしても精進できず、心の中で焦っても突破できませんでした。周囲の同修と交流したところ、程度の違いこそあれ、皆も私と同じくこの問題で悩んでいました。今回、師父は説法の中で明確にこの問題を提起され、私も自分の修煉の問題が明確に分かってきました。
普段、私は発正念をいい加減に行い、重視したことがありませんでした。今回、師父の説法を聞き、私は今からきちんと実行することにしました。毎日、時間がある度に私は長時間の発正念を行い、自分の空間場をきれいにすることにしました。
長い間、私は右膝の痛みに悩まされ、発正念しても改善が見られず、終いに、歩く際は右脚に力を入れないようにせざるを得ませんでした。今回、私は師父の法理に従って、大法弟子を妨害する「細微で良くない多くの生命」[1]などを排除するよう、長時間の発正念を行いました。およそ2時間の発正念の間、私は他を考えず、ただ能動的に邪悪を排除することを考えました。発正念を終え、ベッドから下りた途端、私は右膝の痛みが消えたことに気づきました。これは発正念により得た妨害排除の直接的な効果です。
ある日、私は発正念の中で、自分の体内の一部に、混沌とした一層の怠けの物質が存在していることを感じ、それによって私はいつも疲れや怠惰を感じていたのです。その瞬間私が感じたのは、今まで自分は着実に修煉しておらず、それらの良くない生命を発正念によって排除しなかったため、自分の空間場にたくさんの良くない物質が溜まっていました。それらが私の修煉を妨げ、私を消極的に、精進できないようにさせてしまったのです。その時、私は師父の法を思い出しました。「あなたがどうしようもない状態に陥り、消極になり、何をやっても元気がないようにしています」[1] 「しかし、これらのものは一念で消滅されてしまいます。あなたはどうしても正念が足りず、正念が生じず、作用がないのです」[1]
周辺の同修達の修煉状態も望ましくありません。発正念の際に掌が倒れたり、病業に悩まされたり、或は長い間家庭の関や他の魔難に惑わされている同修がいますが、恐らく発正念を疎かにしていたことと関係があると思います。このような修煉状態を長期間改善できなければ修煉の信念が影響され、どんどん消極的になってしまいます。
一部の同修は発正念が能動的に妨害を排除することだと悟っています。修煉状態が良くない、あるいは長い間ある魔難に悩まされている同修に提案したいのですが、今回の説法の中で発正念に関する部分をじっくり読み、心底から発正念の威力と重要性を再認識して下さい。発正念の時間と回数を増やし、継続的に緩まず、邪悪が完全に除去されるまで発正念を続けて下さい!
以前、私は法を学べば発正念の代わりになると思っていました。今回の体験を通して、私は学法、煉功、発正念、そして真相伝えのすべてをきちんと行わなければならず、どれもほかの代わりにはなれないことを知りました。本当に発正念を重視すべきです!
二、内に向けて探し、自分を着実に修める
長い間家庭の魔難や病業、あるいは経済的迫害に悩まされている同修の多くは精進したい心があっても、その魔難に困惑され、縛られ、疲れているのだと思います。彼らを見て、私は心苦しいです。私自身も妨害されている中で、非常にしんどく修煉しています。心を静めじっくり考えてみれば、自分の修煉の問題点は一体どこにあるのでしょうか? やはり、根本の原因は自分が着実に修めていないからだと思います。
多くの同修は様々な家庭の魔難に遭遇し、悩まされ、すでに感覚が麻痺した人もいます。魔難の現れは様々ですが、根本的に私たちを妨げているのはやはり私たちの人心です。情に執着し、利益に執着し、内に向けて探し、私が思うには、やはり最も本質的に放下し難いのは「自分」です。師父はおっしゃいました。「如何なる事にあたる時も自分自身の問題として考えることができるならば、その人はとても素晴らしい人で、圓満成就まで辿る道にあなたを妨げる障害はありません。誰でも何かのことに出会った時いつでも外へ向かって探します。『あなたはなぜわたしにこのようなことをしたのか?」』心の中に不平を抱き、自分の問題を考えません。これは全ての生命にとって、一つの最大かつ致命的な障害です」[2]
魔難を乗り越えたければ、着実に自分を修めるしかありません。本当に師父のおっしゃったように実行すれば、私たちは問題の所在を突き止めることができ、本当に法の要求通りに自分を着実に修め、心性を保ち、打算的にならず、人を怨む気持ちを持たず、純粋な善と慈悲をもって身辺の衆生に当たれば、どんな魔難も解体します。救われるべき生命が救われ、救えない生命もあなたから遠ざかるでしょう。しかし、魔難の中で私たちは内に向けて自分を修め、執着を取り除くことを決心できず、一方で妨害を排除するよう発正念も重視しなかったために、長期間の魔難に陥って、抜け出せなくなってしまうことになります。
以前、同修の問題が見えたら、私は真っ先に指摘してあげて、それこそ同修のためだと思っていました。今の私はそれが必ずしも正しいとは思わなくなりました。なぜなら、修煉者として、何かの問題が見えた際、真っ先に自分自身をチェックすべきです。他人を「指導」したり、他人を見たりするべきではありません。
修煉の過程では無条件に内に向けて探すべきで、少しも外に理由を求めてはいけないと思います!
法は神聖で、修煉は厳粛なことです。修煉者として、やるべきことはきちんと行い、どんなに小さなことでもいい加減に誤魔化してはならず、たとえ千分の一でもできていなければ、それは漏れであり、不合格です。師父はおっしゃいました。「時には、修煉の中の乗り越えられない関から執着を見つけることができません。それは一部の小さい問題を重視していないからです。いくら小さいことであっても、基準に達することができなければそれでもいけません」[1]
修煉は最後の最後に来ており、同修の皆さん、時間を惜しんで出来なかった部分を補いましょう! 皆さんが「初心を忘れずに修煉」[3]する精進の状態を見つけるよう祈ります。
少しの体験をもって同修の皆さんと交流したいと思いました。不足の部分があれば、どうかご指摘ください。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『シンガーポール法会での説法』
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」