文/河北省の大法弟子
【明慧日本2014年12月14日】皆さんと発正念の時に掌が倒れる問題について交流したいと思います。
1996年に私は母と一緒に大法の修煉を始めました。仕事関連で私はある都市に来ました。今年の春、母が私のところにやってきてしばらく滞在しました。発正念の時、私は母の掌が倒れる問題が深刻であることに気づきました。私は度々声をかけましたが、数日経っても効果はあまり大きくなかったのです。逆に私自身も発正念の時に心が静まらなくなりました。
そして、私は発正念の時、携帯電話で母が発正念する全過程を録画して、母に見せました。その録画をみた母は驚きました。「これは何をしているの? これのどこが煉功者なの? 手が少しも安定していない。でも自分ではあまり動いていないと思っていた」と言いました。私は母に「家でもこのようにやっているの?」と聞きました。母は「家では一緒にする同修がいないので、発正念の時にこの様子だとはずっと知らなかった」と言いました。実際、座禅する時も母の手は安定していませんでした。当時、私は集団学法の重要性をしみじみと感じました。同修は鏡であり、しばしば照らして見れば、このようなあってはならない問題は発生しないはずでした。
知り合いのもう1人の同修は、かつて師父の功法伝授にも参加したことがありますが、発正念の時に同様に掌が倒れる現象が深刻でした。私達が度々彼に注意してあげても、彼は何回かそれは自分の手が傷を負ったためだといい、手が負傷してから倒れはじめたと言いました。彼はそれは直し難いことだと思っていました。私達は彼と交流しました、あなたの手はあなたの指示を聞くべきで、あなたが目を開けて正しい姿勢を整えれば、あなたが目を閉じても、手はやはりあなたの支配を受け、形が変わらないはずです。交流後、彼は認識が向上し、ある程度改善されました。私はカメラで彼の動作を録画して、彼に見せました。彼は「どうしてこうなのか、5分の間、1分も正しい姿勢を保つことができないとは、とても不可思議だ」と言いました。彼に「眠かったのですか」と聞くと彼は「眠くなかった」と答えてくれました。また彼に「眠くなかったら、上の空でしたか」と聞くと、彼は「そうとは感じなかった」と答えてくれました。しかし、手の変形はそれほど深刻でした。実際はやはり主意識がはっきりしていなかったのです。私達は彼に発正念の時、全過程において、目を開け、主意識が絶対にはっきりした状態を保ち、他の空間の邪悪に邪魔されることを許さないようにするようアドバイスしました。こうして、状況はずいぶん改善されました。
もう1人の同修は1999年7.20以前に修煉を始めましたが、夜に学法する時は常に眠っていて、発正念の時に掌が変形していました。彼は自宅で自分で座禅する過程を録画しました。録画を見ると、手の姿勢が正しい時間があまり長くなかったのです。同修の娘は「母は毎回座禅する時、寝ています。毎回目を開けて手を見る時、先に手を持ち上げてから見ます。目を閉じると手はまた変形します。だから、お母さんは煉功するのではなく、寝ています」と言いました。
しばらくの間、私は常人の執着心が膨張し、煉功と発正念時、掌が倒れる現象が現れました。この正しくない状態を正すために、私は内に向けて探すと同時に、 自分の様子を録画し、その録画に向けて発正念しました。私が発正念することを邪魔するすべての邪悪な生命と要素を取り除きました。私は掌が倒れているのが 私自身であると認めませんでした。私は冷静で、師父の要求に従って、邪悪を取り除く大法弟子です。こうして、発正念の姿勢はすぐ好転しました。 それから、発正念する際、まず絶対に邪魔を許さないという一念を発しました。「念を正しくすれば 悪はじぐに崩る」[1]法の要求に符合してから、掌が倒れませ んでした。ここではただ掌が倒れる問題を解決するために、自分の体験を交流するだけです。
同修のみなさん、私はただ私に見えた、掌が倒れるという深刻な問題ついて語っているだけです。私達はこれほど長く修煉しましたが、まだこのような目立つ問題が現れています。私達は必ず問題を暴き出し、私達全体を正し、向上すべきだと思います。みな法理について多く知っていますが、大事なのはどうやってそれを行動に移すかのことです。ですから、学法グループに参加できない同修、或いは自分の動作が正しいかどうか良く分からない同修は、自分で自分の動作を録画して、セルフチェックするよう望みます。長期にわたって、動作が正しくなければ、師父が下さった機制もずれてしまうのではないでしょうか? または長期にわたっ て邪魔されているのに、それに気付かず、正念でそれを取り除いていないのではないでしょうか?
みなさんがこの問題について交流し、みなが共に向上して、大法弟子の基準に符合し、師父の法を正す進展に追いついていけるよう希望します。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「何を恐れる」