協調をする中で自分を修める(1)
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 文/カナダ の大法弟子

 【明慧日本2016年1月27日】私は2001年に修煉を始めました。最初、私が所在するウィニペグ市に同修といえば数人しかいなくて、大法を実証する仕事に実際に関わるのは私ともう一人の同修しかいません。その時期に実は協調する必要がなくて、私は自分の能力の範囲で大法の仕事を行っていただけです。

 ここ数年、数人の大法弟子がウィニペグ市に移住してきたので、私は自然にウィニペグ市の協調人になりました。しかし中国から新たにウィニペグ市に来た古い同修たちに比べ、私はまだ新しい修煉者としかいえなくて、煉功動作や、法理に対する理解などは、古い同修たちに及ばないところがたくさんあります。私は『精進要旨 いかに輔導するか』に照らして、自分を同修の上に置く心を持たず、皆に便宜を提供する奉仕の心を忘れないことと、いつも自分自身に注意して、同修たちの意見を謙虚に聴き取るように心がけています。

 神韻宣伝の協調は、私に対する大きな試練であった

 2010年、ウィニペグ市は初めて神韻を迎えて、同時に私の協調も試練を受けました。私も同修たちも経験がなくて、営業やマーケティングのことなど何も分からず、ただ神韻の意義だけが分かっており、絶対に神韻を成功させようと決心したのです。私は家を抵当に入れて、運用資金を入手しました。

 最初、私ともう一人の主力の同修のAさんはよく協力してくれました。私は常人社会で能力がわりと高く、Aさんは正念が強くて、2人はとても安い料金で神韻芸術団の宿泊ホテルの予約を取りました。しかしそのような協力は長く続きませんでした。私とAさんは共に大学に勤めており、学校が始まると仕事は忙しくなり、神韻の仕事も各自でするようになりました。私が1カ月以上出張した間、重い仕事はAさん一人の肩にかかりました。後になって分かったことですが、あの1カ月間はAさんにとって、とても大きな負担となりました。

 出張から帰ってきた私はAさんの不満を察知できず、通常通りに仕事を分配しました。その後、Aさんの不満を察知し、愚痴をこぼさずに黙々と仕事を進ませたのですが、心にやり切れない思いが生じました。そのようにして、だんだんと二人の間に隔たりが生じました。その間、私は真の「忍」が、つまり忍耐することができておらず、闘争心を持ち、内に向けて探しておらず、心性を高める良い機会を見逃しました。

 神韻宣伝の5カ月ほどの間、やることはたくさんあります。VIPの招待、広告を出す、劇場との連絡などなど、すべて私一人で担当しました。私は睡眠時間を削って、毎日の学法を確保していましたが、煉功を疎かにしました。開演までの6週間は神韻宣伝の最も忙しい時期ですが、その時私はすでに疲れ果てて、体力は残っていませんでした。最後の1週間になると、もう私は力尽きていて、ある同修に「だらしない、緊張感がない」と注意されました。私は口で「自分の修煉はまだそれほど良くできていない」と言いましたが、内心では、どうして私の今までの苦労を理解してくれないのかと、その同修を恨みました。今振り返ってみると、同修の言葉はちょうど私の修煉状態を試すものであり、それに私の責任感を喚起したいという好意でもありました。

 神韻宣伝を回顧すると、本当に一分の努力に一分の収穫です。満席になりませんでしたが、多くの主流社会の重要人物が来場しました。多くの政府官僚、VIPが祝賀の手紙を書いてくれて、地域に密着した努力の成果も現れました。しかし、同修との協力協調の面で、私は師父の要求に達していないと思います。他に、経験が足りないため、広告は最大の効果を発揮することができなくて、最後の1週間の販売状況は良くありませんでした。

 神韻公演が終わって半年後、大法を実証する機会がまた訪れました。中国人の死体を使った、悪名高い「人体の不思議展」は、米国からカナダまで巡回して、ウィニペグ市に来ました。私たちは相談して、そのことを利用して中国で起きた人権迫害に対する関心を呼びかけようと合意しました。そこでOO大学法輪功学生会の名義で「人体の不思議展」を反対するための署名活動を始めました。

 同修たちは非常に協力して、みんなは時間をつくって街頭で数週間も立って、千人余りの署名を集めました。私たちは市の一番大きい新聞社に行って、人体展と法輪功迫害の密接の関係を伝えて、そこで同社は中国共産党が行った法輪功学習者に対する迫害、中国で存在する臓器狩りの事実などを詳しく報道しました。その報道はとても大きな反響を呼び起こし、他の新聞も相次いで報道し、多くの市民に中国共産党の反人類罪を知ってもらいました。ちょうどその時、人体展は人権弁護士・マタス氏に告発されたため、結局、主催者の米国の某会社は人体巡回展を停止すると発表しました。

 今回の経験から、同修たちがどれほどの仕事をしたかに目を付けないことを私は自覚しました。量の多いか少ないかは常人の基準で、神様は人心しか見ておられません。誰がどれほど大法の仕事をしたかに固執する必要が、どこにあるのでしょうか?

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/9/7/262479.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/10/14/135851.html)
 
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