文/中国上海の大法弟子
【明慧日本2016年2月3日】
尊敬する師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
私は2006年に修煉を始めました。この9年間、精進せず落ちこぼれたり、難に直面してとまどったり、ビクビクと恐れていたり、関を乗り越えた後にこの上ない幸せを感じたり、法理を悟って大法のこの上ない殊勝さを深く感じたり、同修との間に心性の摩擦が生じ、どうしようもなくなり後悔したりすることもありました。多くの事がいろいろありましたが、師父のご慈悲と同修の皆さんが気にかけてくださる中、今日までずっと歩んできました。ここでは主に、江沢民を刑事告訴することに参加した体験をお話ししたいと思います。
今回、はじめて中国大陸修煉交流会に参加しましたので、法に沿っていないところがあれば、同修の皆さんの慈悲深く寛容なご指摘をお願いします。
江沢民告訴が私にもたらした衝撃
江沢民告訴の知らせを聞いた時、特に注意を払うことはありませんでしたが、同修が「これは確かに、私たちが行わなければならない事です」と確認するように言った時、「おお! 法を正す進展は本当に速く、これは師父が一人一人の修煉者にお与えになった法を実証するよい機会であり、衆生を救い済度するよい機会でもある」と私は震えながらも思いました。
私はずっと身を落ち着ける所がなく、いつも「穴蔵に居る地下生活」のような日々を過ごしていたので、恐れる心がとても強く、それに人心も多く、自分はまだ師父が法を正す進展において要求なさっている心性基準に達していないと感じていました。あまりにも自信がなかったので、いつまでたっても動こうとせず、ずっと皆の様子を見ていました。ある同修が私に「江沢民を告訴しますか?」と尋ねられ、私の答えは「まだ考えていません、心性が低いので!」と弁解していましたが、これが間違っていることは心の中ではわかっていました。
棒喝
その後、とても精進している同修たちの姿を追っていると、ある同修はすでに告訴状を北京へ送っており、ある同修はどうすれば、もっとよく告訴状を完成できるのか討論していたので、私の心の中では密かにあせり、どうしようもない状態が続いていました。だんだんと、江沢民告訴のことは自分とは離れた事だと感じるようになり、躊躇して決められず、江沢民告訴のことには触れないように避けていました。ところがある日、年配の女性同修が力強く高らかに、師父の法を暗唱し始めました。「肝心なときに、わたしは皆さんを人間と決別させようとしているのに、皆さんはかえってわたしについて来ようとせず、一回一回の機会はいずれも二度と訪れないのです」[1] 続いて、他の男性同修も続けて「一回一回の機会はいずれも二度と訪れないのです」[1]と師父の経文を口ずさみました。
この2つの言葉は、師父が私を棒喝しているかのようでした! まるで本当に棒で頭を猛烈に、ガーンと叩かれているかのようで、びっくりするほど震えだし、修煉者を束縛していたあの外殻が、一層、また一層と体の震えと共に落ちて行き、ついに江沢民を告訴することを決意させました。
この時、ちょうど明慧ネットで色々な形式の告訴状の代表例や手本が発表され、私も自分の告訴状を書き始めました。決心はしたものの、書き始めてみると、「やはり無理だ」と感じ、またまた決心が揺らぎ始め、江沢民告訴のことを、ずるずると先延ばしにしました。
執着を暴露する
当時の心理状態を思い返すと、昨日のことのように思い出されます。当時、私が借りた部屋はとても良く、それでもこそこそと生活していたのですが、生活は比較的安定し、三つのことも平穏無事に行っていただけに、本当に一歩を踏み出せず、一歩を踏み出す危険性がとても大きいと感じていました。今までずっと直面せず、旧勢力が押し付けた迫害を否定することを恐れていました。たとえば、自分が苦を舐めることを恐れ、安逸心が重いために、病業の関をいつまも乗り越えられないことを恐れ、こそこそとした生活を否定し、正々堂々と家に帰えれないことを恐れ、迫害を否定することを恐れ、残酷な迫害が降りかかれば耐えられないことを恐れていました。今のような「安定」した修煉状態がいったん破壊されたら、自分の修煉はすべて無駄になると思い、結局「自らのため、私のため」という考えがずっと頭の中を占めており、法を正す進展について行くことを妨害していました。
「自分は修煉者であり、今の状態は間違っている。それを納得させるため、毎日、毎日『師父と法を信じる』と心の中で叫びました。江沢民を告訴することは師父の要求であり、師父の要求であれば、師父は私たちに迫害を受けさせるでしょうか? 私はいったい誰でしょうか? 修煉の目標は安全に法を正しながら終わりまで歩んでいく事なのでしょうか? 私が輪廻転生の中で待っていたものは、何なのでしょうか? このような状態で三つのことを行えるのでしょうか? 本当の意味での『師が法を正すことをお手伝いする』ことを果たせるのでしょうか?」と、自問自答しました。この時、私は江沢民を訴えることは、すなはち常に隠し、覆い隠してきたすべての執着と人心、この私心の一粒一粒を徹底的にさらけ出し、つぶし、滅し、なくしていく事だと深く悟りました。
私は江沢民を訴える!
自分の背後に隠れた執着が自分の修煉の道を阻んでいたことをはっきりと自覚した時、平静ではいられず、生命の奥深くから「江沢民を告訴する、いや告訴しなければならない!」という非常に強烈な念が発せられました。師父の教えに従って行えば、結果がどうなるかなど、気にする必要はないのです。これまで、修煉して取り除かなければならない執着がこんなにもたくさんあることを自覚した上で、「今生、師が法を正すことをお手伝いするためにやって来たのだ」という確固とした一念もありました。この時の心情をよく書き出せませんが、大法の殊勝さをただ、ただ、感じました! ここまで書いてきて、涙がとめどなく溢れ出ました。
しかし、心の中では迫害されるのではないかと恐れる心が、まだまだありました。もし師父の教えに従って行うならば、非常に純粋な心で、正しく行うしかありません。ただ衆生を救い済度することだけを考え、江沢民を告訴するのであり、方向がずれてはならないのです。しかし考えてみると、この方法にも限界があり、間違いを犯さず危険を避けるために、法理で自分の行動を指導することにしました。しかし、すべてを放下できるまで、本当に修煉し、完璧に衆生を救い済度するための境地にまで上がったわけではありません。当時の私にとっては、江沢民を告訴すること、恐怖心を取り除くこと、実行すること、これが精一杯でした。
家族の支持
告訴状を郵送する際、発信人の住所・戸籍を登録している住所を必ず書く必要がありました。しかし今、兄嫁と姪がそこに住んでいます。江沢民を告訴することについて、修煉していない兄に知らる必要がありました。私は少し心配になり不安になりました。兄はすでに大法に対する迫害の真相を理解しており、家族全員三退し、私が迫害されていた間、兄の家族は正面から立ち向かいました。特に兄は国保大隊の度重なる嫌がらせに、絶対屈しませんでした。私が最も困難だった時、多くの実質的な援助をしてくれ、特に、臨終を迎える前の生前、両親は重病を患っており、両親のそばで面倒を見れなかった私に変わり、兄は一言も恨み言を言わずに、すべての責任と義務を請け負い、さらに私が困難だった時、金銭的な援助もしてくれました。
だが兄は非常に臆病なので、私が江沢民を告訴することを支持してくれるかどうか、自信がありません。兄と会う前に、何度も正念を発し、多くの説得する話しも準備しました。しかし、私が江沢民告訴のことを切り出すと、兄はすぐに同意し、何の説明も必要ありませんでした。兄は「告訴しに行きなさい、特に何も意見はありません。あなたたちが早く無罪を勝ち取れればそれでいい」と言ってくれました。私は心の中でホッとし、感嘆し、師父が私のために道を作ってくださったことに、深く感謝しました。
重大な瀬戸際の時の励まし
しばらくして、懇意な同修が私に話してくれたのですが、その日、同修はすでに訴状を発送し終わり、発送前後の心理状態を簡単に話してくれました。私の目から見ても、その同修の恐怖心はとても重そうに見えましたが、それでも同修はこのように落ちついた様子でいられ、道義上、後へは引けないという立場で江沢民告訴に踏み切りました。気持ちはあっても意志が堅くないのを師父が見られ、大事な時、正念の大切さを教えてもらい、私を後押ししてくださいました。
その同修は「恐れないで、もたもたしないで、考え過ぎないで!」とアドバイスしました。このアドバイスに私は非常に大きな啓発と心強さを受けました! 注意深く考えるのは間違っており、注意深く考えることで次から次へと恐れる心が増大し、今まで先延ばししていたのではないでしょうか? 「考え過ぎる」背後には、まだまだ多くの取り除かれていない人心があるのではないでしょうか? 同修のアドバイスはもっともであり、私にとって何が一番重大であるのかをすぐに悟らせてくれました! ありがとうございます、師父! 私は何をすべきかが心の葛藤の中、やっとはっきりとわかりました!
次の日、EMSエクスプレスメールで「江沢民告訴状」を、中国最高法院と最高検察庁に送りました。その後、配達通知を受け取りました。
出発点
告訴状を郵送してから暫くしたある晩、私は夢を見ました。具体的な内容は忘れましたが、ある念が頭の中に入って来た事を非常に強烈に、そしてはっきりと覚えています。その念とは「江沢民に対する告訴状は私の案件を処理する検察官(以下・検察官A)に郵送された」というものでした。次の日、この夢を思い出し、この念は正しいと思い、考慮する必要はないと考え、すぐに告訴状を一部印刷し、善を勧める手紙を書き、それと告訴状を一緒に同封し、エクスプレスメールで検察官Aに郵送するように、地方に出張していた同修に頼みました。
私は2009年に留置場に不当に拘禁され、その後、保釈されましたが、当時、私の案件は公安局で逮捕状を出され、検察院に提出されました。検察院の若い検察官が2回呼び出した後、検察官に協力することはできないと悟り、家を離れ、外でさまよい歩き回り、浮浪生活を始めました。私の案件はいまだに未解決のままです。
善を勧める手紙の中で次のことを検察官Aに簡単に伝えました。「すでに8千人(当時の数字)を越える法輪功修煉者が、江沢民に対する告訴状を送り、その半分は中国最高法院と最高検察庁が受け取りのサインをしました」。これはこれまでの天象の変化全体の表れであることを検察官Aに伝え、検察官Aが自分で時期や情勢を判断することによって、盲目的に中国共産党のスケープゴート(訳注:いけにえのこと)になり、最後には中国共産党に見捨てられるという不幸を招かないように希望しました。また以前、検察官Aは多くの法輪功の案件を処理したかもしれず、迫害の真相を知らないために過去に中国共産党に利用されたかもしれず、少なくとも私の案件を処理する中で、迫害の真相を理解し、改めて自分が立つべき位置を自分で決められるようになるように、検察官Aに伝えました。インターネットで調べてみると、私の手紙は、確かに検察官Aが自ら受け取りのサインをしていました。
同時に、江沢民に対する告訴状と『最後の大審判』のパンフレットを、私の戸籍所在地の警察署長と居住区の委員会主任に郵送し、警察署長と委員会主任が今後、法輪功修煉者の迫害に加担しないことを祈りました。『最後の大審判』のパンフレットを郵送し終わると、私は多くの良くない物質も同時に解体されたのを感じました。
新しい経歴
江沢民を告訴する全過程において、私が受けた震撼は生まれて初めて感じるものでした。江沢民を告訴した後、多くの良くない物質、特に恐れる心を師父が取り去ってくださったのをはっきりと感じました。江沢民を告訴した後、法を実証することは半分の労力で二倍の効果が得られるようになりました。江沢民を告訴した後、師父が常に私を前に推し進めてくださっているのを感じ、思考はどんどん明晰になり、法理の更にいっそう深い内涵まで悟れるようになりました。そして、ずっと以前から自分が面してきた執着まで見えるようになりました。以前の修煉方式とはまったく違い、自分がさらに高い次元の修煉へと跳躍したのを感じ、言葉を換えて言えば、私の各方面の修煉基準が向上したと感じました。
今年の神韻芸術団の公演の中で二つのプログラムが以前と違い、一つは『妖怪を退治する孫悟空』で、このプログラムは毎年ありますが、今年のと明らかに異なるところは江沢民がガマガエルとして姿を見せ、最後に天罰を受けたことです。みなさんはもうご存知だと思いますが、これは今年の江沢民告訴の大潮流を暗示していました。もう一つのプログラムは「善の力」です。警官が大法弟子を殴打した時、力を入れ過ぎて自分の足を強く打ち、地面に転んだのですが、この時、大法弟子は完全に逃げることができたのに、善良な大法弟子は引き返し、傷を負いながら、もさらに殴ろうとしている警官を助け起こし、穏やかに何度も「真・善・忍」を勧め、最後にその警官は理解し、感動した警官が法輪功をやり始めると、体はすぐに回復し、すばらしい光景も見え、制服を脱ぎ捨て、修煉の道に入りました。大法弟子の善心善行が警官を感化し、生命を本当に救い済度したのです。このプログラムを見返し、師父は、今年大法弟子が直面する修煉課題をすでに、私たちに示されています。大法弟子はさらに大きな慈悲を修めなければならず、わからないうちに悪事を働いてしまった生命を救い済度し、特に法曹機関において、大法弟子の迫害に直接加担した人たち、この人たちを救い済度し、さらに多くの人たちを救い済度しなければならないのです。これは大法弟子に対する師父の慈悲であり、さらには衆生に対する慈悲なのです。
慈悲心を修めることが、大法弟子にとってどれほど重要であるかを、理解しました。慈悲を修めなければならず、最も重要なことは無私無我を修めることだと、悟りました。修煉する前は、いつも学習や仕事の中である程度の能力を鍛錬しており、それはたとえば仕事の効率性や柔軟性であり、修煉を始めた後は、それが「自分式」の修煉方式を形成し、それがさらに次のようなことを引き起こしました。年齢が高く、やることがのんびりとしている同修に対するもどかしさを生み出しました。仕事の経験のない同修や教養レベルの低い同修を見くびっていました。議論のできる同修に対しては嫉妬心を抱いていました。独りよがりで、いつも他の人が「内に向けて探して」いないと考えていました。この体験を通じて、師父は「以前の修煉方式は自分中心に修煉しており、自分でもどこかしら適していないという感覚を持っており、いずれの関も乗り越えることができず、それを避けたり回避したりする方法を採用しているからで、実際、修煉の中で、自分の修煉状態が良いか悪いか、自分の修煉結果はどうなのか、ということを心の中で重視していたために、本当に師が法を正すことをお手伝したことにはならず、衆生を救い済度することを自分の基本的な任務としておらず、法を実証する中での自分の責任と使命に重きを置いていませんでした。たとえ関を乗り越え、何とかして執着、人心を取り除いたとしても、それでもやはり、自分を中心に修煉していたことに変わりはなかった」ということをはっきりと私に見せてくださいました。
この根本的な問題を見つけ出した後、私の修煉は飛躍し、新しい経歴を歩み始たと感じました。それは、「自我を捨て、無私無我で慈悲を修煉する」ことです。
慈悲深く、偉大なる師父に感謝いたします!同修の皆さんに感謝いたします!合掌!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「根を掘る」
(明慧ネット第12回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/11/13/153652.html)