「習慣的な思惟」を認識し、改める
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年2月16日】修煉の道において修煉者は皆、大法を学んで自分が感じ取ったものがあります。感じ取ったものの違いが、修煉者の修煉状態の違いを決めています。今日、私はここで常人の「習慣的な思惟」が大法弟子に及ぼす影響について考え、自分自身にとって特に感慨深いものを書き出して、同修の皆さんと交流したいと思います。

 半月前のある日、朝目が覚めて、ベットから起きようとしたら、全身に力が入らず、煉功もできませんでした。今までこのような状態は一度もなく、なぜこうなったのかを考えると怖くてたまりません。そして、自分は病気だという考えが芽生えれば、次元が落ちてしまうことも恐れました。

 午前6時に我慢して起きて、歯を磨き、顔を洗って仕事に出かけました。事務所についたら症状はもっと酷くなり、そこにいるだけで精一杯でした。しゃべる気力も失い、椅子に腰を掛けて目を閉じて休みました。頭の中で、これは病業だとか、旧勢力の妨害だとか考えました。しかしもし、心臓に何か問題があって血管が詰まってしまったらどうしようとか(以前、同僚は同じ症状の病気を患いました)、色んな事が頭をよぎりました。

 その日の午前中、あれこれと色々思いめぐらしました。やっと昼を過ぎた頃、だいぶ楽になりました。帰宅する頃には、ほぼ元の状態に戻りました。次の朝から煉功もできるようになり、まだ本調子ではなかったのですが、ほぼ、元気な状態に戻れました。その後、普段通り職場に出勤していますが、状態は良くなったり、悪くなったりで、それが病業の状態と旧勢力の妨害だと確信し、発正念をしましたが、効果はありませんでした。時には、脳血栓のような症状が現れ、手の動きが鈍くなることがありました。また、時には心臓病のような症状も現れてきました。胸と背中に痛みを感じ手足に脱力感を覚え、言葉を発することすらままならず、暫くの間、自分の身に何が起きているのか理解できず落ち込みました。

 この状態はずっと続きましたが、昨夜、突然胸が痛み出し、手足に力が入らず、眠れず、とても辛く、心の中で「師父、お助けください!」と叫びました。

 すると、頭の中に「内に向けて探す」の文字が現れて、直ちに自分が何かの間違いを犯しているのではないかと思い、近頃の自分の行いについて振り返ってみました。

 1、まず、私は大法弟子として煉功することは、ほぼ毎日堅持することができています。学法も毎日通勤時間を利用してこなせています。法輪功への迫害の真相資料を帰宅途中で配っています。仕事の休憩時間とバスに乗ってる時間を利用して正念を発しています。

 2、仕事においても、法理に従い、修煉者の基準で自分を律することもできています。完璧ではありませんが、このような大きな魔難に遭遇するほど、修煉状態は悪く無いと自分は思っています。

 3、自分の日常生活について考えてみたら、自分でも驚きました。私の健康保持に対する考え方は、常人の習慣的な思惟と混同していました。毎日ネットで最も検索しているジャンルは、健康保持の記事を見ることなのです。例えば、どのサプリメントを飲めば胃腸に効くかとか、どの食品が腎臓に良いとか、どんなポーズをとれば頸椎の痛みに効くとか、足湯の効果だとか、シャワーに冷たい水を使用する効果等々、考えてみると多くの常人の対策を求めていました。それは自分を修煉者として見なしていることなのでしょうか? 毎日冷たいシャワーを浴び、足を熱い湯につけていることに満足して、他人にも健康保持の経験を教えていました。自分のことを考えたら、冷汗が出てきました。師尊は私たちに「に修める人には病がなく」[1]と説かれています。しかし、自分は健康保持により、薬を飲まずに如何にして身体が無病状態を保てるかを認識するなど、これは法輪功をしながら、常人の健康法をあれこれ取り入れるなど、これは笑止千万な振る舞いではないですか! 健康の保持増進に努めることは病気を恐れていることではありませんか? 実は、私はすでに無意識のうちに常人の「習慣的な思惟」の影響を受けてしまい、恐ろしい境地にまで陥っていたことに、この時初めて気づきました。

 直ちに、私はこのような「習慣的な思惟」から抜け出す決心をしました。そして、同修の皆さんにもこれらの習慣的になった物の考え方・判断・思考形式に警戒心を強め、注意を払うようにと、このことを書き出してみました。

 実は、多くの中年や老年の同修は、このような「習慣的な思惟」を大なり小なり持っています。身体に不具合があったら、すぐさま自分の身体に何か問題が起きたと考え、ネットの健康保持について書かれてる記事に興味を示します。身体の不具合は修煉者に与えられた試練であり、師を信じ法を信じることができるか否かの試練だと思います。

 今日、自分のこのような「習慣的な思惟」をやっと書き出して、誤った「習慣的な思惟」を認識することが出来、常人の習慣的になった物の考え方・判断のし方・思考形式を改めようと思いますと、この一念で、身体の不具合をいつも心配し、鬱々(うつうつ)としていた心は、晴れ晴れと澄み渡り、清らかになり、気力が湧いてきて身も心も軽くなり、健康を回復できました。

 病業の状態が現れた時に、まず第一念は「師を信じ、法を信じる」のかどうか、それとも「習慣的に病気だと判断してしまう」のかどうか、この差違は大変大きく、これでこの後の病業の状態が現れたるかどうかが決まってきます。修煉者にとって「師を信じ、法を信じる」この一念こそ、極めて極めて重大な一念であり、肝に銘じて心を動じないことが大切だと思います。

 以上は修煉過程における私の少しの体験ですが、不適なところがあれば、同修のご叱正をお願い致します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『法輪大法義解』「長春法輪大法輔導員のための説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/2/9/323832.html)
 
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