実修
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文/中国の大法弟子 承恩

 【明慧日本2016年3月1日】「まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」[1]と師父は説かれましたし、これは大法弟子の基準でもあります。胸に手を当てて正直に言えば、自分はまだまだできておらず、悟性も低いと悔しくて情けなく思います。長年修煉してきて、法輪功を「煉る」ことや仕事、その他の目に見えることばかりに力を入れてきましたが、厳密に言えば、今迄の事は実修とは言えません。

 「修煉者の心性を高めることは修煉の実質である」[2]と師父は説かれましたが、良く考えてみれば、これまでの修煉の中で大法の要求に近づきながら精進し続けるのではなく、時間が経つにつれて自分への要求を少しずつ緩めて、段々と形式的なものに拘り始めたといことに気づきました。

 一生を費やして、ほんの少しの油断であってもしてはならなかった昔の修煉と比べてみれば、今の大法弟子たちの修煉はずっと速く進み修煉の時間を大切にし、なすこともせず怠(なま)けてはいけないのです。

 以前、早く法理を悟りたいと焦っていた時期がありました。今思えば、本に書いてある大法の表面的な法理と、自分自身の言動をしっかり照らし合わせて修めることができていれば、その人はかなり高い次元にまで達していると言えるでしょう。しかし問題は、表面的な法理をしっかりと覚えているにもかかわらず、その通りに行動せずに自分を修めていないということです。

 たとえば師父が説かれた「殴られても殴り返さず、罵られても口答えしません」[3]のような最も基本的なことですら、私はしっかりとできていません。殴られても罵られても動じないだけでなく、他人と自分の意見にくい違いがあっても、相手と言い争ってはならないのに、私はすぐに怒り出してしまいます。

 さらに例を挙げると、何事に遭っても真っ先に相手の気持ちを考えなければならないのにもかかわらず、そういう時に限って自分の方が先に怒り出してしまい、自分自身の意見を全面に押し出し、強調して、すべてが自分中心になってしまうことが多いと思います。これでは相手を包容することができるでしょうか。相手の立場になって考える余裕があるのでしょうか。

 このようになってしまうのも全ては、師父の要求に従っていないからです。法に基づいていないから修煉状態がますます悪くなっていき、自信も弱まり、恐怖心が生まれやすくなるのです。

 それから、トラブルに遭った時など、真っ先に自分の内を探すようなことなど、これまで一度もありませんでした。

 その他にも「心を静めて法を学び、着実に修めるべきです」[4]と師父が説かれた基本的なことすらできていません。

 このような自分を思うと、本当に情けなく感じます。これほど大きな法を得たのに大切にすることができておらず、この機会を逃したら二度と修煉できないということがわかっているにもかかわらず、精進していませんでした。

 悟性が悪く、意志も弱いため、師父に線香をあげる度に、自分自身が恥ずかしくて情けないと感じます。

 新たな1年が始まりました。私にどれだけの時間が残されているのかは分かりません。心性を守れずに難関を乗り越えられなかった時は、師父にもう一度チャンスをくださるようにとお願いしますが、いつもいつも二度目のチャンスを要求するだけで精進しなければ、全く無意味なことで、いずれすべてを失ってしまうに違いありません。

 本当に目を覚ますべきです。千万年に一度きりの修煉の機会を逃さないよう、これからはしっかりと実修しなければなりません。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「佛性に漏れなし」
 [2] 李洪志師父の著作:『大圓満法』「付録」
 [3] 李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』
 [4] 李洪志師父の経文:『精進要旨二』「圓満成就に向かって」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/2/11/323977.html)
 
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