自我を放下できなければ危険
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文/中国・山東省威海市の大法弟子

 【明慧日本2016年4月19日】最近、わが地区のある50歳過ぎの男性大法弟子のAさんが、旧勢力によって命を奪われました。この事態をAさんの家族は理解できないだけでなく、大法及び衆生を救い済度することに大きな損失をもたらしました。

 Aさんは法を堅く信じ、2002年から3年間、不当な労働教養を強いられても妥協せず、さらに半年の不当な労働教養を強いられました。期間中、Aさんは強制的に灌食を強いられ、歯はほとんど抜けてしまいました。悪質な警官たちでさえ、Aさんに敬服しています。

 これほど法を堅く信じるAさんですが、なぜ旧勢力はAさんの命を奪い去ることができたのでしょうか? 多くの同修は繰り返し、この言葉を口にしています。

 私は3回ほどAさんと接したことがあり、1回目は他の同修・Bさんの家でした。退社後、Bさんの家に資料を取りに来たAさんに、私は「(せっかく会えたのだから、少し交流をしましょうという意味合いで)少し休んでからにしたら」と言うと、Aさんは「いいえ」だけ答えて、すぐに帰って行きました。Bさんは、「Aさんとは、これまで一度も交流したことがなく、『明慧週刊』も受け取ろうとしません」と言うので、私は「それなら、Aさんとなおさら交流しないといけませんね」と言うと、Bさんは、「Aさんは何も言わず、何も聞こうとしないのに、何を交流しますか?」と答えました。その後、江沢民を告訴することに際し、Aさんと2回会いました。最後に会ったとき、こう聞かれました。「僕の修煉のエネルギーが足りないからでしょうか? なぜ自分の救った人を保護できないのですか?」 私は「どういう意味ですか?」と聞くと、Aさんは「僕の同期ですが、大法を非常に信じ、大法を支持し三退もしました。しかし去年死んでしまいました」と言いました。私は「あなたは自身自分を保護できますか? あなたでさえ師父によって保護され、大法から正念を得ているのではありませんか? 師父のおっしゃる衆生を救うことは、衆生の本質を救うことであり、その人の肉身を指しているのではありません。大法に良い態度を示せば福報を得たり、寿命が延ばされる可能性はありますが、永遠に死なないことは不可能です」と言うと、Aさんは何の反応も示しませんでした。私は「できれば、『明慧週刊』を読んでみて下さい」と勧めると、Aさんは「それは全部修煉者が書いたものですから、見る必要はありません。学法だけで充分です」と答えました。

 この同修は他人を見下し、自我を放下せず、誰とも協力せず、常に自我の基準の枠にはまって行動していると思います。しかし、師父は私達に常に互いに協力し合い、孤立せず、互いに円融するようにとおっしゃっています。「この巨大な宇宙がいくら大きくても、宇宙の中で孤立して存在しているのではなく[1]と説かれているので、個人的に思うには、全体から離脱すれば生存しにくくなり、旧勢力に「いじめられる」可能性が高くなります。

 一部の同修は他人から指摘を受けても聞こうとせず、良い明慧ネットの交流文章を勧められても、「それは修煉者が書いたものですから、法ではありません」と拒否します。確かに、それらの文章は修煉者が書いたもので、法ではありません。しかし、師父は「弟子たちが修煉の中での感想と体験をお互いに語り合うことはとても必要なことです。意識的に自分を誇示することでないかぎり、互いに促進し合い、共に向上するのであれば問題ありません」[2]とおっしゃっているのではありませんか? しかも、明慧ネットがそれを発表することにも意義があって、それによって次元の違う同修達は「比べて学び比べて修す」[3]と、啓発を受けているのではありませんか? もし、修煉文章には法に符合しない部分がある、またはあなたにはもっと高い認識があるなら、それを発表し皆さんと交流し合うのは全く問題がないと思います。しかし、口癖のように、「それは修煉者が書いたものですから」と言えば、あなたは自分を高く思い、他人を見下げているのではありませんか? 実際、それは自我を放下していないことだと思います。

 個人的な浅い認識で、正しいとは限りません。肝心なのは、他人の不足が目についたとき、すぐに内に向けて探し、自分にある類似した問題を探し出して、自分の心性を向上させることこそが肝要なのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『各地での説法六』「二〇〇四年復活祭ニューヨーク法会での説法」
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「法会」
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「着実に修める」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/4/8/326375.html )
 
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