師父の説法を拝聴し、自分を修め、多くの人々を救うことを決意
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明慧日本20166月5日】今回のニューヨーク法会は、私にとって多くの感慨と多くの悟りがありました。私は幸いにも師父の身近で説法を聞くことができました。その情景は常に目の前に浮かび、受けた感銘は心の奥深い所まで届きました。これらを同修の皆さんと分かち合いたいと思います。

二つの法会で師父の無量な慈悲を感受する

ニューヨーク法会の前夜、私は幸いにも、ヨーロッパの学習者の法会に参加しました。私は一列目に坐り、師父がまじかに居られ、師父の説法をそばで拝聴しました。師父は説法をなさりながら、私たちをご覧になりました。その表情に出た何とも言えない温かみは、まさに久しく別れている旅人が、郷里の母親の元に帰って来たという感じでした。私は師父の計り知れない慈悲に包まれ、自分の考えも師父の説法に従って起伏しているのを感じました。私が覚えている説法の大意は、私たちは師父と契約をかわし、私たちの責任が重大であるということです。意気消沈し使命を果たせなければ、事の重大さが見て取れます。師父の説法を身近に聞きながら、限りがある時間の中でしっかりと法を勉強し、より多くの人を救い済度し自分の使命を果し、師父を失望させないように頑張ることを心の中で誓いました。

二つの法会では、師父は私たちに一層一層の粒子、一層一層の天体の法理を説かれました。私が悟ったことは、天体は計り知れず膨大で、衆生も計り知れず多く、その中で私たちは法を正す時期の大法弟子になり、師父は全宇宙の栄耀(えいよう)を私たち大法弟子に与えてくださいました。その私たちが自分の使命を果たせない理由が、また、しっかりやれない理由がどこにありましょうか。どこにもありません。

師父は中国からやって来た学習者の修煉状態を言われた時、私は驚き、自分がしっかり出来ていなかったことが分かり、涙がこぼれました。中国から来た同修の多くは、しっかり出来ていないと、師父は重い金槌で叩いて、私たちを目覚めさせてくださいました。なんと、師父は慈悲で偉大な方でしょう。師父はもっともっと多くの人を救い済度することを望んでおられます。私は師父が意気地がない弟子たちを見て、速く向上し、人々を救うように、時間が差し迫っていることなどなど、急ぐように、今の真情を吐露されたと真に感じました。それをお聞きして、どんなことに遭遇しても、みな法に照らして行おうと私は固く決心しました。

師父の与えてくださったものは、全部正しくて、良いものばかりです。私は師父のご慈悲に包まれ、震えが止まらず、涙が止まりませんでした。私が思うには、今後何か気に入らないことに遇っても、私の最初の念は「自分はまだしっかり修めておらず、正念が足りず、いかにしっかり行うべきか」をまず第一に考えるべきだということです。

私の感慨と悟りはまだたくさんありますが、これらをいかに人の救い済度の行動に生かし、師父のご恩に感謝し、むくいるために、より多くの衆生を救うことに用いるようにするかです。

二つの法会の後の感慨と震憾の中で感じたことは、師父のご期待に沿うよう法をしっかりと勉強し、自分を修め、より多くの衆生を救い済度しなければならないことです。飛行機の中で一つの説法を拝読し、また帰宅の途中で説法の録音を拝聴しました。帰って来た日の午後、私はすぐに中国に向けて真相を伝える電話をかける作業に入りました。法会から強くなった正念と理解できた法理によって、私は真相を話しました。ある肝臓移植をする医者が真相の電話を8回も聞いてくれました。その後、軍隊病院の医務室に電話がつながり、相手は真相の話しを真面目に7分間も聞きました。今回の電話で私は、師父が言われた天体の上下貫通の法理の真理を悟ることができました。当然、上に何かの形成が現れると、下にも何か変化が現れます。師父は人を救い済度することを急がれており、衆生のはっきりとわかっている一面も済度されようと焦っています。私たちの心が法の上で、人を救うことにあれば、水の中に溺れた人を見れば、何も考えずにすぐに飛び込んで人を救います。それが、私たち大法弟子のやるべきことです。

修煉の一日一日を修煉終結の最後の日と心得る

 明慧に掲載された『他の空間の所見:「最後の道に正しく、動揺せず、しっかり歩むことがとても肝心」』という文章の中に次のような1行がありました。「私たちが見えた他の空間で法を正す一部の形勢と現実の形勢との差がとても大きいものでした」は、私の理解では、師父は他の空間で妨げられない勢いで法を正すことが、迅速かつ勇猛に推進され、一層一層の天体、一層一層の衆生に善で解けるものは善解され、同化するものは同化され、残留できないものは宇宙を汚染しないようにされました。それは完全に新しい宇宙を新たに組み立てていらっしゃる過程です。しかし、私たちのところの形勢には、なぜ他の空間の形勢と差異があるのでしょうか。その差異は、私たちが法の中で自分を規正しているか否か、人を救う基点に立って、自分の責任を担っているかどうかにあります。

 師父の説法を回想し、師父が人々の済度をお急ぎになっていることを真に感じました。師父の焦りを見て、私は自分と照らし、ときには少しよくできると、すぐに得意になりましたが、今からすると、これはまったくばかげていると感じました。大法がなければ、私もないのです。私のすべては、みな大法より賜ったもので、得意になる必要はありません。また私が思うには、師父は私たちが使命を果たせず、多くの衆生を救い済度出来ずにいることを見て、私たちの行く末を案じて、焦っていらっしゃるのです。

 今回の法会に感慨と悟りを多く得た以外に、師父は私の身体を浄化してくださり、頑固な疾病を取り除いてくださいました。今、私は何をやるときでも、法の上に則っていれば、師父の按排されたすべてが現れます。師父のご恩に感謝し、大法のご恩に感謝し、残り少ない時間を大事にし、法をしっかりと勉強し自分をしっかり修め、より多くの人を救い済度いたします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/5/29/329354.html)
 
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